最終更新日: 2006年8月16日(水)

ブラザー・サルト・ベランジェの伝記

1913年6月10日---1980年3月20日

ブラザー・フィリップ・ラポワント 編著



   仙台の「光が丘天使園」で園児たちから『ジュルっこ』という名前で親しまれ、井上ひさし氏の小説「握手」の主人公『ルロイ修道士』、「モッキンポット師の後始末」などの小説の『モッキンポット師』のモデルとなったカナダ人のラ・サール会修道士ブラザ ー・ジュール・ベランジェの伝記です。
 師はまた、東京、函館、鹿児島の学生寮の舎監時代には独特の個性で若き寮生達に深い影響を与え、帰天して20年近く経った今も彼らの心の中に生き続けています。

嶋田道也(鹿20期)
松本修一(鹿22期) 挿し絵
同長男・雄也(小6) 挿入曲演奏

挿入曲:J.S.Bach Goldberg Variations, BWV988
から Aria, 7番, 18, 19番

この伝記を書かれたフィリップ先生は、2005年12月21日、故郷のカナダで急逝されました。
先生を偲んで、フィリップ先生の伝記を制作しました。こちらも是非、ご一読下さい。

学生寮OBの「思い出」を収録した新版(pdf file(367KB))

中学校の教科書に掲載されたジュールさんの逸話について(嶋田道也)

モントリオールへのお墓参り(斎藤泰晴)

『ジュールさん』の電脳井戸端会議(佐藤寿美)

収容所について(鶴田陽和)



ベランジェ氏肖像




目  次


はじめに

1.出生と家族
2.召命
3.修道会における最初の数年
4.宣教という天職
5.宣教のはじめ
6.戦争、強制収容
7.戦後
8.再び日本へ
9.第二の修練
10.再び仙台へ
11.東京
12.函館
13.鹿児島
14.日野、東京
15.病気
16.最後の2、3ヶ月
17.葬式

年 表
カナダケベック周辺の地図
中国の地図
挿し絵「ひげ地獄」
挿し絵「日野の舎監室にて」
コラージュ1
コラージュ2
The Sendai Brothers' House
著者近影

訳者後書き




文集について


 東京ラ・サール学生寮OBが書いた、ジュールさんについての思い出話を冊子体の文集にしました。ここで掲載した伝記の全文の他、ジュールさんの数多くの心温まるエピソードが掲載されています。
 頒価は千円で、収益はジュールさんゆかりの仙台ラ・サール・ホームなどの児童養護施設に寄付しております。
 詳しくはこちらをご覧下さい。



ひげ地獄(松本修一画)

ひげ地獄(松本修一画)





はじめに



著者近影

著者近影




 ブラザー・サルト・ベランジェが、数年もの間彼を苦しめた病魔と果敢に戦った後、私たちのもとから旅立ってからもうすぐ二十年になろうとしています。彼が帰天してから一年後、私はこの短い伝記を刊行して同僚のブラザー達やご親戚の方々に配布いたしました。

 東京の学生寮のOB達も彼の思い出を大切にしています。学生寮のOB有志が1998年5月30日に日野でOB会を開催しました。そのときにブラザー・ジュールという修道名でも知られていたブラザー・サルトの思い出話がたくさん出ました。OBの一人である嶋田道也さんに、私が1981年に出版したこの伝記のことを話しましたところ、彼からぜひ一部分けて欲しいとの申し出がありました。そして彼は伝記を読み終わった後、これを日本語に翻訳したいと申し出て下さいました。私の方でも、喜んでできるだけのお手伝いをいたしました。

 手記や証言を収集することにより、中国と日本における彼の宗教と宣教の道程を辿り、彼の個性を浮き彫りにすることができました。寄せられた手記を引用した部分は「」で示してありますが、手記を寄せて下さった方の名前は記載してありません。

(訳注:【 】で示したのは、訳注です。)




1.出生と家族



 サン・タレクサンドル駅【地図参照】から、さほど遠くない線路沿いに、「ベランジェ農園」という大きな看板がある。ベランジェ農園はセント・ローレンス河の川下にある大農園の一つであり、そこではブラザー・ジュールの父親と息子達が乳製品を商っていた。サルトはそこで1913年6月10日に、ジュール・ベランジェとエルミール・フランクールの間に生まれた。彼は17人子供がいる大家族の14番目の子供であった。サルトが亡くなった時、まだ10人ほどの兄弟姉妹が生存していた。

 彼は平穏な子供時代を過ごした。家族のなかでは小さいほうに属し、農園の仕事にはほとんど興味がなかった。家族からはとても可愛がられていた。両親は彼が中等学校に進学することを希望したが、そうすると勉学の期間が長くなるので彼は進学を敬遠した。生涯を通じて、むしろ彼は人々と交わることと、すぐに役立つことに興味を持った。

 サルトは、私欲を捨てて生涯を奉仕に捧げることを、おそらくかなり若いころから考えていたのだろう。植物と自然への愛、臨機応変のセンス、人々と交わりながら、また色々な困難に直面しながら多くのことを学ぶ姿勢、こうした個性を、彼は生涯を通じて育んでいくのである。



カナダ地図





2.召命



 サルトの家は、惜しむことなしに何人もの修道士、修道女を出した。兄弟ではサルトの他に、ケベックのドミニコ会の修道院長ジル、グランビィのトリニティ会に奥さんの死後入会したジョルジュ、ケベックのカリタス修道女会のリディア、モントリオールのプロヴィダンス会の修道女となったブランシュとテレーズがおり、さらに2人の甥もドミニコ会員である。

 サン・タレクサンドルの助任司祭でもあったモリセット大修道院長は、キリスト教学校修士会(ラ・サール会)に行くことを若者達に薦めていた。サルトもそのなかの一人であった。

 1927年8月22日【14歳】にサルトはサン・フォア【地図参照】の小修練院に入る。そこは少年時代とは全く異なる世界であった。その頃の養成機関は形式主義と厳格主義で凝り固まっていたが、サルトは幸せそうであった。もともと陽気な性格で、すべてを受け入れ、少しのものにも満足することを知っていたからである。先生達のなかには、ブラザー・オディロがいた。かれは後年サルトとともに中国と日本に宣教に赴くことになる。

 1929年8月29日【16歳】、サルトは初めてブラザーの修道服を着、修道名は父親の名前にちなんでブラザー・マディール・ジュールと名乗った。翌年の8月15日に最初の誓願を立てて修学院へと進んだ。これからの数年間、彼は純真で真に敬虔な心と堅固な信仰心とを育んだに違いない。この信仰心によって彼は後に幾多の運命の嵐に立ち向かうのである。彼は気弱な同僚を元気づけることも覚えた。それは彼がすでに宣教者のような偉大な心を持ち、隣人へ心を向けていることの現われであった。当時修道士達の間では、長期間勉学に勤しむことはまだ余り行われていなかった。修学院で1年半学んだ後、彼は1932年1月18日【18歳】ヤマシッシュ【地図参照】へと赴任した。




3.修道会における最初の数年



 1932年【18歳】から1940年10月【27歳】に満州に出発するまでブラザー・サルトは4回も転勤した。ヤマシッシュに赴任してから1年ちょっとしか経たない1933年4月12日にはもうトロワ・リヴィエール・アカデミー【地図参照】に転勤になった。この転勤については、彼も長い間納得がいかなかった。7年後中国にいたサルトは、管区長に宛てた手紙にこう書いている。

 「トロワ・リヴィエールで管区長様にお目にかかれたのは幸運でした。それ以来、管区長様は私にとって、私を理解して下さる父のような存在になりました。ヤマシッシュからトロワ・リヴィエールへどうして私が転勤するようになったのか、時々不思議に思います。それは、たぶん神様のありがたい思し召しだったのでしょう。この修業時代に起きたことがどんなに私のためになったことか。それになにより神様は管区長様というすばらしい方と出会わせて下さった。神様には本当に感謝しています。」
(1940年11月8日奉天にて)

 サルトはトロワ・リヴィエールにもそれほど長くは滞在しなかった。1934年1月15日【20歳】、彼は再びヤマシッシュに戻る。1936年8月15日【23歳】、彼はロレットヴィル【地図参照】へと赴きそこで宣教に旅立つまで滞在する。

 どうしてこんなに何度も、しかもしばしば学年の途中で転任があったのだろうか。その土地の事情なのか、あるいは他の理由なのか、誰も知る人はいない。しかし、次の証言にあるように、彼はどこでも大歓迎を受けた。彼は誰とでもすぐ打ち解けた。取り越し苦労をしなかったのは、彼の目には彼を導く神の手がいつも見えていたからなのだ。1938年7月14日【25歳】ケベックで彼は終生誓願をたてる。

 この最初の数年間、修友、修道者及び教師としての彼は、同僚のブラザーの目にどう映っていたのだろう。当時のブラザー・サルトを知る同僚のブラザーはこう証言する。

 「彼は愉快で、楽天的で、(すこし控えたほうがいいんじゃないかと思うぐらい)人をよくからかったりする人で、でも同僚のブラザーを大事にしていました。チェスが好きでね。それと彼がいるとみんなが素直な気持ちになるんですよ。人のために上司を助けたりもする。誰とでも仲良くなれる。愛想がいいし、ユーモアのセンスもありました。とても活動的でした。純真な信仰を持った忠実な修道者でした。細かいことには向いていませんでしたけれど。修道会や同僚のブラザー達に愛着を持っていました。とても世話好きで、どんなものでも修理していました。ちょっとお節介が過ぎることがたまにあったけど、気にするほどのことじゃなかったです。修道会では、彼はひときわ目立っていましたね。先生としては有能だし一生懸命。子供から好かれていましたし、子供とも家族とも親しくしていました。子供達のグループ、それに色々な慈善運動のために飽きることなく熱心に忙しく働いていました。同僚のブラザー達にも、それからブラザーでない先生達にも協力的でした。自分でも熱心に働きましたが、人を働かせるのが上手でした。一言でいうと気難しい人ではありませんでした。(それほど気難しくない、と表現する人もいます)。それで厄介な状況の中でも冷静なんですよ。そして決して悲観しない。精力的で人を元気にする。どんな状況でもすぐ適応する。愚痴を言わない。自らのことを語らない。率直で、機転が利くし。宣教者の心を持っている。しかし余り細かい人とは合わなかったかも知れません。」

 こういった個性を彼は生涯持ち続けた。みんな良く知っているとおり、彼はとてもおしゃべりだ。彼は話しながら笑うのが好きだったが、声がちょっと大きすぎた。時々余りにもやかまし過ぎることもあった。そう、同僚のブラザー達で静けさを好む人の中には、「うるさい、困った人だったこともあったかもしれないけれど、優しい心の持ち主だった!」と言う人もあった。

 何物にも挫けないように見えた彼でも、自分のことを理解してもらえずに人知れず苦しんだことが無いわけでは無かった。前に引用した満州からの手紙を読むと、そうした苦しみが伝わってくるようだ。

 同僚のブラザーのなかには、「彼は修道会のすべての人の友人だった」と指摘する人もいる。強い権威でもって人と接する人ではなかった。「教室でも教会でも、かっとなることはあっても、またすぐ笑って元どおりになるんです。」

 ヤマシッシュの滞在は短かったが、土地にも人々にも愛着を持っていた。生徒達も彼への愛着をずっと持ち続けた。彼は人の顔と名前とをとても良く覚えていた。50年後、カナダに戻った後も彼はヤマシッシュの生徒達の名前をまだ記憶していた。

 ロレットヴィルにおける、彼の最後の上司も彼への賛辞を惜しまない。

 「1938年にロレットヴィルに校長として着任してブラザー・ジュールと知り合い、彼が中国へと旅立つまで一緒に仕事をしました。ブラザー・ジュールは、感情を表に出さなくても、その敬虔さは膝まづくときのゆったりとした動作、祈りを捧げる時の大きな声、ミサの侍者の献身的な準備、模範的な教会の運営として表われ、同僚のブラザー達や生徒達の目に止まりました。神のしもべとしてのミサの侍者の仕事に、彼は独自の工夫を加えました。善良なお父さん達を侍者として用いたのです。お父さん達が、レースの白衣をまとって荘厳ミサで厳粛に仕えるところを想像できますか?ブラザー・ジュールは、その機転とあらゆる試練に耐える寛容さによって、修道会、教育委員会それに司祭に認められました。ブラザー・ジュールに言わせると、そのようなことが即、喜びであり、人生であり、節度のあるいたずらなんですよ。彼は先生の威厳でもって生徒を威圧するというタイプではありませんでしたが、教えることに熱意を持っていましたし、授業の準備を周到に行う、とてもいい先生でした。最後に私にとって印象深かったできごとについてお話ししましょう。彼は彼の兄弟がドミニコ会の神父になる叙階式に参列したかったのですが、許してもらえなかったのですね。彼はだまって耐え忍び、彼自身が忍耐強くなるためと兄弟の聖職が実り多くなるようにその犠牲を神様に捧げたのですよ。」

 長い年月が経過した後でもこのような証言が寄せられたことからも、彼が知人や同僚にとって、いかに印象的であったかが明らかである。




4.宣教という天職



 1939年7月【26歳】、ブラザー・サルトは願い出て宣教の道を選んだ。それはふとした思いつきではなく、長いあいだ考えた末のことであった。彼はエベール管区長に宛てた手紙にはこう書いた。

 「遠い国に宣教に行きたい、という希望を管区長様に申し上げたいと、長いあいだ考えていました。常識的には、私は宣教にはふさわしくない人間ですし、自分がまだ未熟であることは十分承知しています。でも宣教に行きたいという思いはとても抑え難く、しかも日に日に募ってくるのです。

 自分は宣教に行くべきか否かを検討し、また私の霊的指導者や両親にも相談した後の決心です。両親と祖国、それに母国語のもとを去るのは大変辛いことです。死への旅につくようなものです。神様は、寛容な魂にこのような犠牲を求めるのです。神様には宣教師がどうしても必要なのです。自分にできることを他の人にまかせておけるでしょうか。私にできることは、私がやりたいのです。神のお導きにすべてをゆだねつつ、遠い国の布教団で働くことを申し出る人達の中に私の名も加えて下さるよう切にお願い申し上げます。どうか私のつつましい尊敬と服従の心をお受け入れくださいますよう。」
(1939年7月18日、リスレにて)

 一年後、彼は満州へ行く宣教師として選ばれた。彼のほかに4人のブラザー達が、満州で宣教に従事しているブラザー達に加わることになった。4人のブラザーは、ケベック州出身のブラザー・オディロ(シャルル・パケ)とブラザー・イポリット(ポール・ルミール)、及びモントリオール出身のブラザー・メデック(ドゥヴィル)と ブラザー・ギ(オーデ)であった。

 家族と年老いた両親のもとを去ることは、彼にはとても辛かった。とくに、彼はいつでも落ち着いている母親を崇拝していた。大家族だったのでいつも何かと苦労が絶えなかったが、サルトは、母親が取り乱すのを一度も見たことがなかった。しかし彼が外国に旅立つことを告げると、母親は悲しみにうちひしがれてしまった。

 母親はサルトに、「あなたにもう会えなくなるのではないかしら、向こうでは苦しいことや辛いことが沢山あるのではないかしらと、お母さんは心配でたまらないの」と打ち明けた。「そんなふうに取り乱して、悲しんだり心配したりするのはお母さんらしくないですよ。お母さんは今までずっと苦労ばっかりだったけれど、それでも平静にしていられたのに。神様はいままで、いつもお母さんの傍にいらっしゃったでしょう。宣教師としての私もきっと守ってくださいますよ。」すると母親は納得して、落ち着きを取り戻した。

 この話は、1979年12月末に日本を去る数週間前に、彼と最後の祈りを捧げるために日野に集まった修道者の仲間達に彼自身が話したものである。彼はさらにこう続けた。「私も、どんなことがあっても平常心でいたい、といつも願っていましたが、神様のおかげで今までそうしてこられました。」

 宣教という使命の厳しさ、それから別離という犠牲を払わないといけないという点では、兄弟のジルも同じだ、とサルトは思っていた。そのころジルはドミニコ会の司祭に叙階されたばかりであった。サルトにしてみれば、兄弟に忍耐を期待するからには、自分も同じ様な試練を受けなければ気がすまなかったのである。




5.宣教のはじめ



 ヨーロッパに戦争の嵐が吹き荒れていた1940年の9月末頃、修道士のグループが向かったのは日本の占領下にあった満州国であった。ヴァンクーヴアーで修道士達は氷川丸という日本船に乗り込んだ。同じ船には、カナダの他の宣教師達のグループがいた。聖ヴィアトール会の司祭達、善き牧者会の聖職者達、及び無原罪の御宿りの修道女達である。

 彼等の乗った船は10月19日に横浜港に到着した【27歳】。仙台のブラザー・マリー・マルセルが横浜に迎えに来ていたが、「戦争が始まりそうな時にやってきた君たちは運が悪かったね。」という彼の歓迎の第一声が彼等の感激の出鼻をいささかくじいた。実際、その言葉通り翌年の12月8日に日本は連合国に宣戦を布告したので、宣教師達が自由の身であったのは1年間だけであった。横浜港から、ブラザー・マリー・マルセルは到着した修道士達を汽車や船で日本を通り、韓国、中国、そして最後に満州の瀋陽【地図参照】まで連れていった。ブラザー・レオポルド、ブラザー・マリー・リゴリ、それにバーテレミュが数年前からそこにいて、小神学校で住み込みで教えていた。到着したばかりで勉強をする修道士達のために修道院が設立され、ブラザー・マリー・マルセルが院長になった。そこでは言葉、文化、それにまもなく始まる宣教生活について学んだ。そこは満州国ではあったが、学習したのは占領国の言葉である日本語であった。他の人と同様にサルトにとっても、新しい環境に順応し日本語を学習するのは容易ではなかった。前に述べたケベックの管区長に1940年11月8日に彼が書いた手紙にはこう記してある【27歳】。

 「カナダを去るという犠牲を払うのは、とても辛いことでしたが、その一方でついに念願がかなったことで私は満足でした。その理由や私の考えについては、よくご存じの通りです。最近無性にカナダのニュースが聞きたくなりました。ニュースが着くのに時間がかかることは覚悟しております。でも到着したときに、院長がまだいなかったのには少々驚きました。ブラザー・マルセルが、総長補佐からの9月7日付けの手紙を受け取ったのは、なんと横浜に私達が到着した日の2日前のことだったのです。

 みんなで書いた手紙をお読みになってもうご存じのように、こちらでは、みんなそれぞれ、なんとかやっています。学校を建てるために、建具屋、電気工事屋、塗装屋、運転士、料理人、散髪屋、看護人、香部屋係【ミサの準備をする係】など、カナダのあちこちで少しずつ噛ったことのある、あらゆる仕事の経験を総動員する必要がありました。こんなに色々な仕事ができるのは、私をおいて他にはおりませんよ。ここは母国カナダではないんだなあと、しみじみ思うことが時々あります。日本人になりきること、それが私達に今一番に求められていることです。でも日本人になりきることは容易ではありません。」

 状況はめまぐるしく変化した。ブラザー達は学校を建てることも、本来の仕事に取りかかることもできなくなった。彼等は、司教の要請に応えて、小神学校で教鞭をとるようになった。勉学と準備にやっと数ヵ月とれたところで、勉強をする修道士の修道院は閉鎖になった。このグループのほとんどは吉林【地図参照】に移動して小神学校で教鞭をとった。ブラザー・サルトはそこに残って瀋陽の小神学校で教鞭をとった。



中国・満州の主な地名





6.戦争、強制収容



 1941年12月8日は真珠湾攻撃があり、宣戦が布告された日である。この日から4日後、日本警察が修道会を襲った。外国人すべてを逮捕するというのだ。修道士達は手早く荷物をまとめさせられて香港上海銀行【瀋陽支店】の建物に連行された。これが長い強制収容の始まりであった【28歳】

 10日後彼等はムクデン・クラブという瀋陽のYMCAに移動させられた。1月末にはカトリックの修道者や宣教師は汽車で四平(スーピン、Szepingkai)【地図参照】の神学校に移動させられた。そこでブラザー達は吉林の同僚や、その他多くのカナダ人及びベルギー人の宣教師達、総数約160名に出会った。

 彼等は自分達で毎日の時間割を組み、外国語講座及び宗教や文化、レクリエーションの活動などを催して、自己啓発を行ったり時間を有意義に使うことができた。塀の中でいくらかの自由が与えられていたので、不安を和らげ過酷な境遇にも堪えやすくなることができた。良い食料品を調達し、病人の世話をするために、闇市を催すような世に長けた人もいた。

 時とともに条件は悪化し、病人や死人があいついだ。中国と日本のブラザー達の長上であったブラザー・マリー・リゴリは、1943年10月28日に高熱のため帰天した。しかしこのときは、ブラザー・サルト他、数人のブラザー達は四平をすでに去った後であった。

 1942年の夏、捕虜交換の準備が整いつつあった。ブラザー・マルセル、ブラザー・メデリック、ブラザー・サルトとブラザー・イポリットが選ばれた。9月末、彼等は横浜に到着してブンド・ホテルに投宿した【29歳】。しかし誠に不幸なことに、彼等を輸送する予定であった船舶が出航停止となったため、すぐに帰国することはできなくなった。

 そこで彼等はまた移動させられた。今度は横浜の東にある競馬場の中にある競馬騎手達の控室に押し込まれた。ブラザー・マリー・マルセルは、こういった。「そこではあらゆる人種、あらゆる宗教、あらゆる状態の人々が雑居する本当の強制収容所だ。」

 そしてついに【1943年】5月末に最後の移動があった【29歳】。彼等は横浜から50kmほど山奥に入った山北村の近くに移動させられた。そこで彼等は解放されるまで、宿舎や食事の悪条件に耐えながら過ごした。そこでは栄養不足によって肉体が弱っていたにもかかわらず強制労働が行われた。それに収容者の間の緊張や監視員の冷酷さ、それに無為、不安、病気などもあいまって心身状態は最悪であった。収容所の生活を詳しく述べると余りにも長くなるのでここでは割愛する。筆者にとって興味深いのは、ブラザー・サルトがこのような長い受難の歳月をどのようにして持ちこたえたのか、という点である。

 外国人宣教師として、彼と四平に収容されていた神父が当時の彼の様子をこう語ってくれた。

 「収容所では、彼はいつも座を賑わしていました。誰とも仲良しで、誰にも一度も『いや』と言ったことがない人で、誰とでも一緒に働いて、社交的で、微笑みを絶やさず、いつも上機嫌でした。食事に文句を言ったりするようなことは一度もありませんでした。穏和で純真で、模範的な善意の持ち主でした。」

 強制収容所の中にいても、彼は修道会にいた頃と全く変わらなかった。彼の同僚のブラザーは、次のような長い証言を寄せてくれた。

 「ブラザー・ジュールは私にとって兄さんでした。彼は、ラ・サール会のブラザーのあるべき姿を見せてくれました。一緒に生活した7年間、宣教活動の頃も、強制収容所にいた頃も、一度約束したことは必ず守る人でした。常に熱烈な宗教心を持ち、誰にもまねできないほど献身的で、人をからかうのが好きで、そして微笑を絶やさなかった。彼がいないと、修道院は灯が消えたようでした。そして彼が帰ってくるとみんなの表情がパッと明るくなるのです。人をからかうことがブラザー・ジュールの日々の糧と言っても良かったのではなかったのでしょうか。からかいの度が過ぎるように思えることが時々あっても、人の心を傷つけることはなかったですよ。少なくとも悪意はなかったですね。

 ブラザー・サルトは、確かにとても優しい人でした。彼は、私欲を捨てて、他の人に限りなく尽くしました。強制収容所であったことで忘れもしませんのは、一年の間に同僚のブラザー達になにか失礼なことをしたのではないかと恐れた彼が、ある聖金曜日にブラザー同士がおたがいに許しあうことを希望しました。それで私達は、心を込めてそういたしました。それはとても私達のためになりました。強制収容所の中では、どうしても神経のイライラが限界に達して、他の人を傷つけないようにするためにはよっぽど注意しないと危ない、という時期があったのです。

 強制収容所のことをお話ししますと、そこでも、ブラザー・サルトは、宣教師としての能力を遺憾なく発揮しました。ある家族と親しみ深くお話しをして良い方向に指導したおかげで、その家族がカトリック生活を実践するようになったことがありました。

 聖ジャン・バプティスト・ド・ラ・サールの真の弟子であったブラザー・サルトは、聖母マリアに対して深い信心を持っていました。山北の収容所にいたときでも、彼とフランシスコ会のブラザーと私で、隅の静かな場所を毎日行ったり来たりしながら、ロザリオの祈りを一緒に唱えたものです。ある日曜日には、私達は晩の祈りを歌いました。彼はとても歌が好きでしたが、音程があまり正確ではありませんでした。それでも心を込めて歌っていました。過労ぎみで歌えないときは、『私に構わず歌ってください。』と彼は言ったものです。」

 サルトは、四平の収容所で歌を作ったこともあるのだ。収容所の中の’なれかし’という歌で、グブリエの曲を使っていた。【石井注:’なれかし’はマリアが天使から救い主の母になることを告げられた時、驚きの中にも神の御旨への信頼をこめて、「あなたの御旨の通りになりますように」と答えたその言葉である。(ルカ書1の38)】詩は上出来とは言えないが、彼の当時の精神状態をよく表わしている。繰り返しのフレーズには、こうある。

私達は神であるあなたの御旨を崇めます。
偉大な愛の持ち主、情熱的な心を持った羊飼い、
茨の冠を頂いた全能の王、
私達は私達の十字架を受け入れ、大いなる神を賛えます。

 この年月の間、彼がブラザー・エベール(管区長)に認めることができた手紙は、たった一通のみであった。この手紙は国際赤十字を通じて送られた。その手紙は、山北から出されており、1943年9月6日の日付である【30歳】。行間から、この手紙が検閲されたことが明らかである。手紙は英語で書くことが義務付けられていた。

 「白十字、または赤十字によってカナダに届けられますこの手紙は、管区長様の新年のご多幸を祈る私の気持ちで満たされています。管区長様とすべての友人及び親類に私の気持を伝えたく存じます。このようなことを管区長様にお願いすることをお許しください。手紙の数量が制限されているのです。私達は今日本の田舎に住んでおりまして、健康で勉強に励んでおります。毎日、管区長様のことを祈りやミサ、及び聖体拝領の時に思い出しております。ブラザー・イポリットと私は、管区長様に尊敬と服従の気持をお伝えしたいと存じます。管区長様の幸福な部下より。ブラザー・ジュール」

 山北では、サルトは、トイレの汲み取りや、夫や息子が出征している近所の家庭の世話のような、誰もが嫌がる仕事をみずから買ってでた。そのため人々はサルトを尊敬し崇拝するようになった。収容所の警備員までもが例外ではなかった。「日本人を初めて好きになったのは山北の収容所時代です。日本人も戦争のために苦しんでいることに気付いたからです。」と彼は後に語っていた。彼は戦後日本に戻って、山北の村や収容所跡を何度も訪れた。何軒かの家を尋ね、昔から知っている人達から、小さかった子供達が大人になったことを知った。30年経った後でも、人々は彼のことを覚えていた。彼が逆境のどん底においても人々を愛し、人々に尽くすことができたという事実によって、彼の行動の原動力がどのような精神であったかが理解できる。彼はこの強制収容の苦しい歳月のことを時々話すことはあったが、決して皮肉や恨みを言ったりすることはなかった。

 1945年8月15日、天皇が公式に日本のラジオ放送で無条件降伏を宣言した。収容所は歓喜で溢れた。ついに自由がやってきたのだ。数週間後、収容されていた人達は米軍によって解放され、連れ出された。宣教師のブラザー達は、健康と体力を回復するため、再びカナダに帰国した【32歳】。




7.戦後



 彼は帰国してもじっとしてはいなかった。カナダ国内をあちこち旅してまわった。これは休養とも言えるかもしれない。しかしあちこちで手伝いながらの旅である。1945年の11月はケベック州のジャック・カルチエ【32歳】、1946年9月にはアルタバスカ【33歳】、1947年の夏はサン・ジェローム【34歳】、1947年の9月にはトロント州のオークランド【34歳】、そして1948年1月にはオッタワ・アカデミーの年少修練院を訪ねた【34歳】。

 「その頃、私はオッタワの年少修練院の9年目の年でした。彼がどんなに喜びに輝いていたか、今思い出しても驚きを禁じ得ません。ブラザー達が食堂で食事中にどうしてあんなに笑い転げていたのでしょうか。それはブラザー・サルトが、昔、つらい宣教の年月に起こった、おかしなできごとのあれこれを皆に話して聞かせていたのでした。

 彼のことはとても印象に深く残っています。もしかすると、彼は、無意識のうちに私に宣教師になる考えを植え付けたのでしょうか。

 彼とは後に日本で再会し、日野で数年間を一緒に過ごしました。寮生や小教区の人達、それに近所の人達への、彼の宣教師としての影響力、癌との長い闘病、2回の大手術からの回復中に見せた闘志、精神力。化学療法中、病院に私が毎日見舞に行ったときに彼が見せてくれた、平常心で運命を受容する姿勢。これらすべてを私はこの目で見てきました。そして1980年1月15日に、彼がいよいよ最後にカナダへ旅立つとき、空港まで私は見送りにいきました。彼の最後の微笑み、そして最後の握手を、私は終生忘れることはできません。」




8.再び日本へ



The Sendai Brothers' House

The Sendai Brothers' House




 1948年の6月【35歳】には、ブラザー・サルトは十分に体調が戻り、日本に戻ることしか念頭になかった。彼は2人の新しい仲間、ブラザー・マイケル(ルネ・ジャルベール)と、ブラザー・フェルディナン(アンドレ・ジャンドロン)と一緒に旅立った。3人とも仙台へ行き、戦後の最初の仕事として、児童養護施設ラ・サール・ホームの設立に執りかかった。

 「日本に初めて行ったとき、一緒だったのがブラザー・ジュールでした。熱情溢れる彼を見て、私達二人は、これからまったく新しい冒険が始まるのだと確信したのです。仙台に着いてからは、彼は様々な試みを次々と率先して行いました。この頃は施設を設立する時期でしたので、色々な仕事が次から次へと生じていました。」

 その頃の日本は、終戦直後で困窮の極みにあった。日本の復興はようやく始まったばかりで、食料品と生活物資はほとんど無きに等しかった。1948年9月、ラ・サール・ホームに最初の子供達が入園してきた。まだ最初の建物が建築中だったので、ブラザー達と子供達はとりあえず作業場に寝泊りした。

 彼は、釘など日本では入手できない物資をカナダから取り寄せ、敷地内の木を切り倒して建築用の木材に使った。ブラザー達は熱心に働き、困難を切り抜けた。この時期に日本に戻ってきた宣教師達はみな同じ様な体験をした。サルトは仕事に全身全霊を打ち込んだ。苦労も多かったが、喜びで一杯であった。

 1950年【37歳】に彼は児童養護施設の園長に任命された。当時の園児の一人である井上ひさしは、今日、日本でもっとも有名なカトリック作家の一人である。作家としてデビューした頃の作品のなかで、彼はラ・サール・ホームの時代をユーモアたっぷりに描いている。ブラザーの面々は偽名で作品に登場しているが、どれがだれだか、すぐに見当がつく。彼はブラザー・サルトをおおいに尊敬していた。当時の同僚のブラザーはこう語る。

 「仙台の司教が私たちに委ねた養護施設の仕事について、最近修道院で話しながら、私はブラザー・サルトを再び思い出しました。彼の語り口は純朴で飾り気がありませんでしたが、彼の言葉は本心からのもので確信に溢れており、私達の心に響きました。彼は必要に迫られて何か指摘するようなときは、誰も傷つかないよう気配りを怠らなかったので、抵抗無く受け入れられました。

 彼は自分を園児達の父親と思っていました。私達は自分達を園児達の大きいお兄さんと思っていました。私達の一番大事なことは園児達を心から愛し、惜しみなく彼等の生活に不足しているものを施し、ひたすら献身的に尽くすことでした。

 彼自身は園児達に親切で父親の役割を果たしていました。児童が悪いことをして捕まると、ブラザー・サルトは、その過ちについてだけ諭し、すでに済んだことをまた持ち出して責めるようなことはしませんでした。」




9.第二の修練



 1953年9月【40歳】、サルトはローマに向かい、第二の修練を9ヶ月間受けた。 修練を再度行うのは古くからの伝統である。ローマにおける修練は、軍隊のような厳しい規律に縛られたものであった。しかしサルトは首尾良く修了することができた。やはりここでも彼の陽気な性格が幸いした。彼の仲間の手記を読んでみよう。

 「彼も私も同じセント・ローレンス河の河口の地方の出身で、1928年からの知り合いでした。

 ローマでは、彼の機転や親切のおかげで本当に助かりました。一見ややこしそうな状況でも、彼は平気でした。彼は、いつでも頼りにでき、励ましてくれる兄さんのような人でした。

 修練院長は、彼に布類整理担当を命じました。彼はその仕事を注意深くこなし、ブラザー達のどんなに細かい要求にも応じていました。彼にはその仕事がこたえ、修練中に風邪を引きました。彼はちっともそういうことを言わないので、あくまで私の推測ですけれども。

 11月の初めには、彼は寝込んでしまいました。食事による中毒が原因でした。体調を崩したブラザーが何人かいましたが、サルトの症状が一番重かったのです。

 私は隣人のために生きて、決して自分の中に閉じ籠ることのなかった彼の思い出を忘れられません。彼にかかると、心配することなんて何もないのです。彼の深い信仰が、主への信頼、宣教師としての才能、隣人への絶対的な愛情の源泉であると信じています。」

 ローマからの帰路、彼は再び一年間をケベックで過ごし、休養をとりながらラヴァル大学で研修を受けた。




10.再び仙台へ



 1955年4月の初め【41歳】、彼は仙台に戻ってきた。情熱的なのは以前と変わらなかった。今回は、彼は児童養護施設の園長と修道院長の重責を一身に引き受けた。彼は以前と同じ熱意をもって仕事に打ち込んだ。児童達とブラザー達のために惜しみなく尽くした。

 この仙台時代の9年間が彼にとってもっとも幸福な時期であった。児童達には信者はほとんどいなかったが、それでも彼は児童達になんとか祈りを教えようと努めた。

「過ごしやすい季節の夕方には、ブラザー・ジュールは、よく子供達を連れて敷地内のルルドの洞窟に行き、そこで天なる聖母を賛える聖歌を歌ったものでした。寒い日には、聖堂に子供達を連れていき短いお祈りと聖歌を捧げてからお話しを聞かせました。子供達は、おとなしく聞いていましたよ。」

 彼は近くの学校に通う児童達の勉強もおろそかにしなかった。彼は先生達と努めて連絡をとり、児童一人一人の勉学の進捗状況や品行を見守っていた。

 1962年1月、彼はカナダでの休暇を利用してコンプトンにおいて百日間の黙想を行った。7月に日本に戻る際【49歳】、管区長から、東京【代々木上原】に1961年に開いた学生寮の舎監を命ぜられた。8月には、修道院長も兼ねるようになった。当時修道院には、日本語を勉強中のカナダ人ブラザー達のほかに日本人の修学修士が数名住んでいた。




11.東京



 この新しい職責には、すこし後込みをした。長い間養護施設の児童達を相手をしていたが、東京の寮には東京の色々な大学に通学する20名の学生が住んでいる。大人と子供では、知的なレベルが全然違う。彼の日本語の知識はまだ初歩の段階であったし、語彙も限られていた。大人の青年達の心をつかむことができるのだろうか。

「ブラザー・ジュールは、東京の学生寮の舎監の仕事はどうも苦手です、とある日私に洩しました。その仕事に自信を持ったのは、急病を患った寮生にちょっとした親切をしたのがきっかけでした。

ブラザー・ジュールは、彼に自分のベッドを提供して、自分は適当な場所で夜を過ごしたのです。親切にしてもらったその寮生は、新しい舎監の心遣いのこまやかさを他の寮生達に話したのです。

『その一件には救われました』と彼は言いました。寮は美しい家族のようになり、学生達とブラザー・ジュールとは、お互いに全幅の信頼をおいていました。」

 彼はまた休暇を利用して、寮生が帰省している実家を訪ね、寮生をより深く知るように努めた。その後、寮生が所帯を持つと、また訪ねていった。いやむしろ寮生の方で機会をとらえて彼を訪ね、奥さんや子供達を紹介する場合が多かった。また、彼はほとんどの卒寮生の結婚式に出席した。

 彼の「大きい息子達」と暮らしている間も、彼は純真さ、人なつこさを失わなかった。彼は寮生達と酒を酌み交わすことが大好きで、どんなに風変わりな料理も平気だった。健啖家で、人生の楽しみ方を知っていた。日本語は、それほど上達こそしなかったが、流行語やくだけた表現、それに方言や俗語を覚える才能があった。  寮生が授業から帰ってくるのは夕方なので、寮生に会うために、夜遅くまで起きていなければいけないことが度々あったが、翌朝、聖堂に行くのは一番早かった。祈りが彼の情熱とバイタリティの源泉だったのだ。

 この頃、修道院と、人間形成期にある日本青年とに同時に携わることが、彼にとって段々困難になってきた。どうしても、どちらかに掛かりっきりになって、二つ両立できないことが時々あった。彼にとって人生は単純素朴なものであった。彼の性格はあけっぴろげで、人間関係は正直で率直なものであった。そういう彼であったので、人間関係の細々したことは彼を消耗させた。

 寮生達は彼をとても信頼し敬愛していたので、彼が転勤になることを聞くと、本当にがっかりした。




12.函館



 実際、1966年11月【53歳】に、新しく選ばれた管区長は、彼に北は函館にあるラ・サール高校の寮の世話をすることを命じた。サルトにしても、東京の寮生達には愛着を持っていたので、この転勤命令は彼を苦しめた。

 転勤命令には容易に納得できず、その上、彼が言うには、新しい管区長はまだ正式に就任していなかったこともあり、我慢できずに抗議までした。寮生達も、東京を訪れた管区長に会いに行って、ブラザー・サルトを転勤させないよう懇願した。しかし当時函館は困難な状況下にあったので、函館のほうが優先度が高かった。学生運動の波が押し寄せる前兆があった函館には、サルトのような性格を持ち、機転に富む人物が求められていた。

 サルトは転勤に納得し、彼を必要とする職責と状況に直面するために、持ち前の陽気さと元気を取り戻して出発した。函館では、20人ではなく数百人の寮生が相手だった。現在ケベックに移住している当時の寮生は、こう証言する。

 「1967年4月に函館ラ・サール高校に入学して、初めて先生にお会いしました。私が15才から18才まで住んでいた学生寮の舎監をしていました。両親と離れて暮らしていたので、先生は私の生活にすぐ飛びこんできました。先生は存在感が強烈で、ときどき養父のように思うことがありました。同じように感じていた人は、寮生には実にたくさんいました。

 67-70年は学生運動がキャンパスを吹き荒れていました。学校に敵対する雰囲気の中にあって、先生は多くの学生たちと個人的な接触をすることができた、ごくまれな例外的な存在でした。

 先生に再会したのは、1974年、東京においてでした。外国留学をするために奨学金が欲しかったのです。先生は、大学を選ぶための貴重な助言をしてくれました。そういうわけでラバル大学の名前を知りました。ラバル大学は、後に私の第二の母校となりました。3年後の1978年、私は帰国して東京を再び訪れました。帰国する前に、日野の修道院に泊めてもらうことをお願いしていたのですが、カナダ移住ビザの許可が出るのを待っているうちに、結局5ヶ月も日野に滞在してしまいました。先生は当時、日野の修道院に住んでいました。ケベックの女性と私が結婚するというので、よく先生にからかわれたものです。

 先生と最後にお会いしたのは、1979年にケベックでのことでした。大手術を2回も受けた後、先生は信じられないほどの速さで回復して、私は驚きました。そのときに家内を先生に紹介することができました。

 昔のままの、心の優しい先生の魅力に家内が虜になったのは、あっという間でした。先生が、もうすぐ日本に帰れるのでとても嬉しい、と言うのを聞いて、私達は深く感銘を受けました。

 彼のような人に会えるなんて、私はどんなに幸運だったのでしょう。彼の個性、天職、そしてどんな人種にも向けられた限りなく深い人類愛。彼から教わったことは、数え上げればきりがありません。彼ほど多くのメッセージを与えてくれた師は、ほかにはいません。速い歩調で腕を振りながら歩き、いつも大声で笑っていた彼の姿を、まだはっきりと思い出します。この姿が、多分彼が思い出に残してくれた、私への最後の贈り物でしょう。」

 ひとによって多少の表現の違いはあるが、この卒業生が書いたことと同じ様なことを、多くの人が証言している。サルトは、彼の好意と心づかいに浴することのできた人々の心に大きい痕跡を残した。函館の同僚のブラザーは、こう書いている。

 「ほとんど毎日、夕方になると私は生徒達を寮に訪ねていました。するとジュールさんは、彼の仕事部屋で暖かく迎えて下さり、何をお願いしてもいつでもすぐに対応して、私が知りたいことはすべて教えてくれたものです。それも電話に出たり、生徒を助けたりしながらです。これ以上仕事をするのは、誰にも無理だと思いました。彼は、100%仕事に打ち込むタイプでした。」




13.鹿児島



 函館は落ち着きを取り戻した。管区長は、彼を今度は南に送って、仕事が多すぎて助けを求めている寮の舎監を助けたいと考えた。70年の9月10日【57歳】、荷物を整理して鹿児島へと向かった。そこでは彼の責任の範囲は広くなかったが、瞬く間に、彼は、先生や職員、それに生徒と親しくなった。

「鹿児島では、私は彼の上司でした。彼はあらゆることで私を助けてくれました。週に何回か、夕食後に彼と一緒に散歩をしました。彼はあらゆることに興味を持っており、ちょっとしたことにも感動する才能がありましたから、話題は尽きませんでした。彼は記憶力抜群で、地名、人名、それから何年も前に会った卒業生の名前を、よく覚えていました。」

 彼の記憶力と、人への興味は、日本に限られてはいなかった。

 「彼は家族や出身の小教区の人達と離れて暮らしていても、それらの人達への強い愛着をずっと持ち続けていました。ここに彼のサン・タレクサンドルでの教え子で、1930年から1973年までに死亡した人のリストがありますが、両手でやっと持てるほどたくさんあります。カナダに戻るたびに、彼は60人もいる甥や姪を全員たずねました。でも手紙はそう頻繁には書かなかったようです。」




14.日野、東京



舎監室にて(松本修一画)

舎監室にて(松本修一画)




 1973年の1月【59歳】のことである。サルトが鹿児島に行ってから2年半になっていた。彼は鹿児島が気に入り、彼は周囲から高く評価されていた。しかしまた別のところから、彼に来て欲しいという要望があった。管区長は、東京の学生寮の舎監を、もう一度担当して欲しいというのだ。

 69年から、修道士達は東京の郊外である日野市に引っ越していた。サルトは再び寮生達のもとでの使命に戻った。間もなく、修道院長も兼ねることになった。

 日野では、あっという間に、寮と修道院のすみずみにまで彼の影響力は浸透した。彼は小教区委員会の一員となった。修道士達の聖堂の日曜日のミサには、近所の信者達も参加しており、サルトは、それらの人達と親しくなった。また、近くの地域のいくつかの小教区が合同で催す種々の司牧活動、特に青年団の活動には彼は必ず参加するようにしていた。

 彼は修道院を開放し、ブラザー、司祭、ラ・サールの先生、学生、卒業生、若い信者、それに信者ではないがキリスト教に関心を持っている人達にまで、数日間、あるいは短期間の滞在に、修道院を利用できるようにした。ブラザー達と一緒に食事をとったり、集会のために部屋を自分で準備したり、庭でピクニックをしたりすることにより、修道院を利用した人々は、歓迎されていることを実感した。彼にとって、貧しいということは、すなわち自分のものを分かち合うこと、自分の時間や労力を人のために使うこと、いつでも人のために役立つよう待機していることであった。彼は一般の青年が使える集会所を、敷地内に建てる計画に賛同していた。

 彼がいかに奉仕に熱心であったかを伝えるエピソードを、特に一つ紹介しよう。ある夏、近くの三つの小教区が、青柳【長野県茅野市】にあるラ・サールの山荘で集会を催そうとした。ところが、山荘に着いたところで、鍵を持ってくるのを忘れたことに気がついた。そこで日野に電話すると、サルトがすぐさま鍵を持って、青柳まで電車で3時間かけて駆けつけ、彼等を窮状から救ってくれた。

 彼は東京に戻って、カナダ人のレデンプトール会司祭が指導する、祈りと聖書研究のグループがあることを知った。このグループのメンバーは、フランス語を話す数人の修道女であった。彼はそのグループの熱心な会員になった。彼は、このグループにも、大きな足跡を残した。

 「彼は聖書研究会に、大きな本を重そうに抱えながら、長い道のりをやってくるのでした。着いたときにはもう疲れている様子で、息も荒かったのですが、いつもニコニコして、いつでも担当の分を注釈する用意ができていました。彼の注釈はありきたりのものではなかったので、私達は彼の順番が来るのを楽しみにして待っていました。彼は、私達に、彼の純真そのものな心を開いて下さいました。彼の心は、一歩一歩とキリストに近づいていくように、私達は思っていました。」

 「彼のような素晴しいブラザーが集会に来て、祈りのときに絶大なる指導力を発揮して下さると、とても励みになる一方で、大きな安心感を得ることができました。彼はよく分かるように指導して下さいましたし、彼の祈りはまっすぐに主へと向けられ、まわりくどくありませんでした。彼は謙虚な方で、グループを支援してくれる人として敬意を払われると、かえって居心地がよくない様子でした。」

 「彼には、自分が不治の病を患っていることが分かっていました。でも他の人の気分を重くさせたくなかったので、自分の最後が近づいていることを悟られたくない、と思っていました。彼は私達と過ごした最後の瞬間まで、決して平静を失わないで、自分の体調のことは構わずに、集会で自分の役割を果たしていました。」

 「彼の主への信仰の深さには、本当に限りがないことを知りました。特に聖マリアへの愛情には心をうたれました。彼の口から自然に唱えられる祈りの、なんて純真なことでしょう。それを聞いていると、彼の魂にイエスの霊が宿っていることを実感しました。そして彼が日本の教会に抱いている愛情がはっきりと分かりました。」

 この祈りのグループは、彼の精神的な生活を最後まで支えた。彼の部屋のドアが半開らきになっていると、彼がロッキング・チェアーに腰かけて、聖書を読んだり祈ったりしているところを、日中かいま見ることがよくあった。




15.病気



 数年の間、サルトは排尿時の痛みに苦しんでいたが、大して気にしていなかった。しかし、ある日、尿に血が混ざっているのを見たときは、さすがにびっくりした。それは、1978年の春【64歳】のことであった。初期の検査を東京の聖母病院で受け、1ヵ月入院したが、大したことはない、と診断された。彼はもう治ったと思ったが、夏に同じ症状が出た。今回は、そういう病気の診断を専門とする医者に診てもらった。その医者は、一日も早くカナダに戻ってそこで手術を受けることをすすめた。

 8月からカナダに帰国していくつもの検査を受けた。診断結果はこうだった。左の腎臓と膀胱を切除する必要がある。手術は秋に受けた。膀胱を切除するのは大手術であるので、多くの人は、もうこれで終りと思った。しかし彼は驚くべき速さで回復した。そして、日本に早く戻ることを切望した。回復を待ちながら、彼はサン・ドロテア修道院の廊下で愛想をふりまいた。許可がでてからは、食堂で他の人と一緒に食事をとるのを楽しんだ。

 体力がまだ完全に戻ってはいなかったし、人工膀胱にまだ十分馴れていなかったが、彼はできるだけ早く日本に帰りたい、と希望した。周囲はもうすこし待つことを薦めたが、彼は、待っていても完全に回復することはない、と考えていたのかもしれない。

 出発するとき、彼は子供のようにはしゃいだ。帰れることに誇りを持っていた。79年3月の半ば【65歳】に、彼は東京に帰って院長の仕事は免除されて、どうにか再び学生寮の舎監の仕事についた。鹿児島のブラザー達は、ぜひ彼に鹿児島の院長になって欲しいと、以前から希望していたが、相談の末、東京にいてもらったほうがいいということになった。彼自身もそれで満足だった。彼はサン・ドロテア修道院の院長に、次のような感謝の手紙を書いた。

 「何度も、ほとんど毎日病院に見舞に来て下さったり、また朝早く部屋にお越し下さり有難うございました。一言でいうと、修道院でのリハビリは楽しかったですよ。もうカナダを発って日本に戻ってから3ヶ月がたちます。特に大きな問題もなく、2回の手術を済ませたことに喜んでいます。私は東京にとどまることに決まりました。私もそれで満足しています。最後に、再度お礼を申し上げますとともに、ラ・サール会がキリストへの信仰において団結することを祈りながら筆を置きます。」

 彼の性格の明るさは以前と同じであったが、昔ほどの体力はもうなかったので、色々と調整を行う必要があった。彼は工夫の末、他のブラザーの手を煩わせないで、自分で交換できるように人工膀胱を改良した。

 それからしばらくは何事もなく過ごせたが、秋に肩のリンパ節が腫れているのに気付いた。リンパ節は医者が切除したが、検査の結果、癌腫瘍であることが分かった。癌が全身に行きわたっているので、癌が猛威を振るいだすのは時間の問題だった。彼は化学療法を受け、二週間入院することに同意した。

 12月に二度目の入院をしたときは、激痛に苦しんだ。修道院長は毎日見舞に訪れていたが、担当医は、修道院長に、「まだ旅行ができるうちに、カナダに帰した方がいいです」と告げた。彼自身も、病状が悪化した場合にはそうしたいという希望を、以前から表明していた。もう一度家族に会いたかったのがその理由だったが、日本の同僚のブラザー達に迷惑をかけたくなかったのである。

 その翌日、修道院長は彼にそのことを話した。管区長はローマの会議に出席しており、今決断することが必要だった。サルトは、病状が速く進行していることに少し驚いた様子だった。彼は、治療をすれば回復するものと、ずっと信じていた。彼は敬虔に、平常心のままで、自分の肉体に起こっている現実を受けとめ、避けられないものを受け入れた。

 12月17日、彼は退院して修道院に戻ってきた。同僚のブラザー達、友人、それから卒業生には、サルトが近いうちに旅立つことが知らされた。出発の日まで、電話や訪問が毎日相次いだ。仙台地方で、ともに宣教の仕事に携わった昔の仲間、それにドミニコ会員、ケベック宣教会員、レデンプトール会員、Scheutの神父達など、大勢が最後の別れを告げにきた。

 12月29日に、彼と一緒に祈りを唱えていたグループが日野の修道院に集まり、彼と親しく祈りを捧げる集会を催した。

 「ブラザー・ジュールとの最後の集いは、友情のしるしの訪問やお別れの訪問以上のものでした。それは祈りのなかのひとときでした。彼がお一人で主に捧げた祈りは、私達の心に限りなく深く染みとおりました。それから彼は一段と大きな声で、彼の、あの純真さで、『全生涯を神に捧げ、全身全霊を主に捧げます』という誓いを、改めて唱えたのです。最初の宣教への旅から現在に至るまで、その間、収容所生活も体験しながら、彼の宣教の生活、そのものが祈りでした。彼は、いままでの生涯のなかで主が彼にして下さったこと、すべてについて、改めて感謝しました。最後に彼は、こうしめくくったのです。『主よ、あなたは今までずっと私にお恵みを与えて下さいました。微笑む元気を最後まで与えて下さることを信じています。アーメン』」

 グループの中の女性の一人が、次のような質問をした。「本当に長い間、宣教生活を続けて来られたのですね。日本における宣教生活で、もっとも重要な点はなんでしたのでしょうか、よかったら教えてください。」

 彼はこう答えた。

 「それは喜びです。喜びが宣教を証言する上で最上のものです。微笑むことによってキリストの教えを広めることができます。それから全ての出来事を、悲しいことも嬉しいことも、主の真実の喜びの内に受け入れることです。そして、自分の意思を主に委ねるように努めるのです。ちょうど幼子が父親にそうするように、自分自身を絶対的に任せるのです。それも微笑みつつ、平静を保ちつつ。いつも容易にできるわけではありませんでしたが、真剣に祈れば・・・そうすると主は、そうした行為を神聖なものと認めて、救ってくださいます。」

 1月12日の午後、ブラザー達は、司祭、地域の青年、小教区の信者と一緒に最後の聖体祭儀を行った。ミサを捧げる門馬神父は、こう語った。「ブラザー・サルトとは、私が神学校の生徒の頃から深くおつきあいをしていただいています。私は、神父の仕事についてから、ブラザー・サルトにどんなに励ましていただいたか分かりません。ときには全部投げ出したくなるようなこともありましたが、そういうときも励ましていただきました。」ミサの終わりに、サルトは青年達への最後のメッセージを贈った。聴衆の一人が彼のメッセージを書き取り、それが、死亡通知のカードに日本語で記載されている。

 「日本を去るにあたり、皆さんに短いメッセージを贈りたいと思います。復活の聖なる徹夜祭、復活祭前の土曜日の光の典礼の言葉を思い出していただきたいのです。それは、次の言葉です。『キリストの光!神に感謝!』皆さん、世の中を照らす光になってください。ひとりぼっちで苦しんでいる人達がいます。友人を必要としている人達もいます。学校でも、クラブでも、社会でも、あらゆるところで、皆さんはそういう人達の友人となって、キリストの光を輝かせてください。キリストの光を、いつでもどこでも輝かせることが、教会の責任であり、神の民である私達自身の責任でもあるのです。『キリストの光!神に感謝!』これが皆さんに残すメッセージです。」

 1月13日の行事は、寮生と卒寮生が主催した。遠く日本の最南端である鹿児島をはじめ、下関、広島、神戸、大阪からかけつけた卒寮生もいた。その日は雪が降りしきる中を、卒寮生達はこのお別れ会に大勢かけつけた。集会場は人で一杯になり、活気で溢れた。一人一人が巡り会いのいきさつを思い出し、再度、「ブラザーありがとう。ぜひまた元気になって日本に戻って来て下さい。」と述べた。着物を着たサルトは、大家族が集まった会場の中をあちこち歩きながら、本当に嬉しそうであった。この日の彼は、実際、特別の雰囲気に包まれていた。悲しむ人こそいなかったが、会えるのは、今日ここで会うのが最後だと、誰もがみな推測していたし、サルトも心の中でそう思っていたに違いない。

 1月15日の夕方、ブラザー達、学生、それに友人達を乗せた車が、何台も日野から羽田空港へと向かった。その他にも、直接、空港に向かう車も多数あった。彼の周りは人でぎっしりになり、あらゆる角度から、カメラのフラッシュが点滅した。彼はかなり疲れていたが、それでも最後まで立って、一人一人に心を向けるよう努めた。最後には、涙がこぼれた。「万歳」。拍手・・・。

 日野の修道院にはポッカリと大きな空洞があいた。まだ誰にも彼が去ったという実感がなかった。彼の心と精神はまだここにある。そして誰もが、彼の生き生きとした思い出を抱いている。彼は、モントリオールで出迎えた人達に、「戻ってきたのは、もうすぐあの世に行くからですが、苦しんではいません。」と述べた。




16.最後の2、3ヶ月



 東京で彼を診察した専門医達は、最新の医療機器を備え、最大限の努力をしたにもかかわらず、癌がどこにあるか特定できなかったが、どこかに癌があることは確実であった。カナダに戻ってから、検査が再度、徹底的に行われた。2月18日に、彼は東京の修道院長に、カセット・テープを送って近況を伝えた。

 「あなたからの手紙と写真をさっき受け取りました。興味深く拝読、拝見いたしました。もっと早く手紙を書かないと、と思っていましたが、すこし具合が思わしくなかったものですから。

 まず、東京を発つ前には、あなたに色々とお世話になりました。お礼を申し上げます。ラ・サール会の機関誌 Le Soleil Levant(「昇る太陽」)に、記事と写真を掲載して下さり、ありがとう。あの記事は有名になりましたね。ここカナダでは、写真に写っている大勢の人達を見て、半分死にかかった人をカナダに送出すのに、こんなにたくさん人が集まったことに皆びっくりしていますよ。こんなにしてもらって光栄です。しかし寮生達は見違えるように成長しました。別にいばるわけではありませんが、今回のことが、ラ・サール寮にいい影響を与えたことには、満足しています。

 去年の夏から1月までは、それほど悪くはなかったのですが、2月の初めから、胃が少しおかしくなりました。料理を見ただけで、吐き気を催すのです。それで落ち着けません。今はどうなっているか、はっきりとは分かりませんが、内臓がやられていそうです。いずれにせよ、日野の青年達に助言したからには、自分でも微笑みは絶やさないように努めています。これからも、もし必要なら、死ぬまで微笑みを絶やさないように努めます。でも死ぬまでは、生き生きとしていられる、と思います。

 お医者さんたちが病巣を見つけて、もっと私が元気になるような治療法を決めることができたら、もっと健康になって、元気になって、もっと寛大な心になってあなたのもとに戻ってこられる。そういうことまで考えています。

 日野及び日本のブラザーの皆さん、日野の友人の皆さん、それから出発を見送ってくれた皆さん、11日と12日のお別れ会に来て下さった皆さんに深く感謝します。皆さんとは、最高の思い出ができました。毎日、少しずつ、皆さんのために祈っています。

 修道院では、もうじき四旬節に入ります。私は、とくに断食をする必要はないと思いますが、あなたの願い事が叶うように、あなたの日本での宣教が実り多いものであるように、私の祈りのすべてを捧げます。では、最後に、さようなら。ありがとう。」

 彼がカナダに戻ってから、兄弟姉妹、甥や姪が、機会を逃さないよう彼に会いに来た。しかし彼の体力が衰えていたので、訪問は、ほんの短い時間に制限された。2月末には、癌は小腸に進行した。そうすると急速に衰弱が進んだ。

 昔、日本における同僚で、修道院で生活を共にしていたブラザーが、カナダに帰国して、サルトに会ったときの様子を次のように伝えている。「ずいぶん変わりました。痩せて顔色が青白く、声が、日に日に、か細くなっていってました。苦しそうなのは分かるのですが、決して苦しいと言わないのです。そして前と同じようにニコニコしながら、迎えてくれるのです。」

 3月12日、担当医は、もう回復の見込みはないことを彼に宣告した。その数分後、兄弟のジルが見舞に来て、病室でミサを行った。彼はちょっと驚いたが、心の準備はできていた。彼はこう兄弟に心のうちを語った。「私は受け入れます。旅立つ覚悟はできています。もう最後です。すべきことはすべて致しました。」ジルは、サルトの最後をこう語る。

 「この日は、彼に会いに行ってミサを行おうと決めていました。それは、忘れられないひとときでした。その時は、涙はでませんでした。この最後のミサは、それ自体、この上なく美しい、喜びに満たされた、平常心のなかでの体験でした。夕食後、病者の秘跡を授けました。彼はとても喜んでいました。『天国の一日だったね』と彼は言ったと思います。私は次の金曜日に、また見舞に行く予定でしたが、彼はその前日、20日に亡くなりました。」

 20日に、昔、宣教の仕事の同僚であった、ブラザー・オディロ、ブラザー・ローランが、ケベックから見舞に来た。彼の意識は最後まではっきりしていて、彼等のことも分かった。彼はラジオ放送で最後のミサを聞き、数分後、静かに息を引き取った。【66歳】




17.葬式



 葬式は、ド・ラ・サール会館において、3月24日に執り行われた。ジル・ベランジェ神父が、20人ほどの神父の共同司式によりミサを捧げた。聖堂は、親戚、同僚のブラザー達、それに友人達で溢れた。そのなかには、ドミニコ会員、三位一体会員、カリタス女子修道会会員、プロヴィダンス女子修道会会員もいた。

 説教では、ジル神父が、自分の兄弟であるサルトとの深い精神的なつながりを強調した。信者相手の聖職と、司祭という聖職の二つの聖職の道を兄弟で歩むことにより、サルトの40年間の充実した宣教生活と、自分の40年間の聖職を比較することができたのだという。実際、40年前、サルトと、その甥でドミニコ会の神父となったジル・レヴェックとが、ジル・ベランジェが神父の初ミサで侍者として仕えた。

 この葬式は、栄光と歓喜に包まれた、ブラザー・ジュールの天職のフィナーレを飾る祭典であった。聖職に就いてから今日まで、サルトはずっと自分の天職を誇りにし、ラ・サール会に強い愛着を持っていた。

 数年前、彼はローマでブラザー・オディロとともに、ブラザー・ミュッシャン・マリーとブラザー・ミゲルの列福式に参列することができた。この思い出は、彼にとって忘れられないものとなった。

 日本でも、多数の友人や卒業生が3月30日に集って、彼の冥福を祈り、彼の生前を偲んだ。ほんの2ヶ月前、彼にお別れをした集会場は、人で溢れた。十数人の司祭達がともにミサを行い、東京の白柳大司教も、目立たぬように参列者に加わっていた。白柳大司教は、サルトを高く評価し、敬愛していた。

 卒寮生、仙台の卒園生、鹿児島や函館の卒業生、多数の宗教団体の友人、近所の人達が、信者も信者でない人も、大勢駆けつけた。これらの人達は、皆、サルトを尊敬し、慕っていたのだ。

 花で囲まれた写真の彼は、私達に苦悩を超越させて、彼の歓喜の境地へと誘うがごとく、生前よりも一層の笑顔で手招きしているようであった。この追悼録の冒頭にも掲載してあるその写真は、1月11日に、信者である幼児が、日野地域の若者からの贈り物として、十字架を贈ったときに撮影したものである。

 この上もない悲しみの中にありながら、この葬式も希望の祭典となった。多くの青年達が参列したのは、彼の人の良さ、親切、好意に心を動かされたからに他ならない。

 参列したある青年が、ブラザーの葬式は、いつもこんなに盛大なのでしょうかと質問した。ブラザー・サルトが他界した後の今日、このような反応から、皆一人一人が、ブラザー・サルトと出会って感じたものを改めて噛みしめ、現代世界に生きてきた一人のブラザーの影響力の大きさを判断できるのではないか。日本人である彼の友人が、彼が他界したのは、丁度、春の彼岸の頃である、と指摘していた。日本では、この時期に、亡くなった人を偲ぶ習わしなのである。

 彼の亡骸は、モントリオールの、ノートルダム・デ・ネージュ霊園に納められている。ある卒寮生が、彼の亡骸を、日本に運んで来ることはできないものでしょうか、そうすれば、彼が愛していた人達の近くに眠ることができるのではないでしょうか、と問うていた。彼の亡骸がどこにあっても、これからもずっと長い間、彼は私達の中に生き続け、愛情と笑顔で私達を励まし続けてくれることに変わりはないのである。



真面目にやってる?





訳者後書き


 ブラザー・フィリップがお書きになったジュール・ベランジェさんの伝記を、最初に読んだときの感動は忘れられません。戦争中、強制収容所に恩師が収容されていたかと思うと心が痛みますが、そのような状況下でも明るく強く生きてきた恩師の偉大さと信仰の力に胸を打たれます。それに最期のところは何度読み返してもすばらしいですね。ブラザー・ベランジェには、学生時代お世話になり、心から敬愛していましたので、この伝記を訳すことができ、光栄に思っています。この訳が、学生寮OBを含め、ブラザー・ジュール・ベランジェを慕う人たちが、ブラザーのことを偲ぶよすがになれば、訳者としてはこの上ない喜びです。

 もとより仏語の専門家ではないので、訳の正確さには自信がなかったのですが、函館ラ・サール高等学校理事長のブラザー石井が丁寧に訳文をチェックして下さり、教会用語をはじめとして数々の貴重な指摘をして下さいました。改めてお礼申し上げます。

 鹿児島ラ・サールの先輩である鶴田陽和さんには、この伝記が読みやすくなるよう、多くの貴重なご指摘をいただきました。鹿児島22期の松本修一君は、ユーモラスな絵、及び美しい挿し絵を提供して下さいました。それから小生の友人である西尾敏君には、訳文の言葉遣いなどに関して助言していただきました。

 また、この場をお借りして学生時代に仏語のてほどきをしてくださった、ブラザー・鈴木、ブラザー・フィリップ、ブラザー・ローランに感謝いたします。

 もしよろしければ、この伝記をお読みになったご感想をお寄せ下さい。ジュールさんのエピソードも歓迎いたします。送付先は、下の通りです。

 なお、東京ラ・サール学生寮OBが書いた、ジュールさんについての思い出話を文集に致しました。ジュールさんの数多くの心温まるエピソード及び伝記の訳文が掲載されています。ご希望の方は下記までお知らせ下さい。頒価は千円です。収益はジュールさんゆかりの仙台ラ・サール・ホームなどの児童養護施設に寄付しております。よろしくお願いいたします。


電子メール:mailaddress
住所:〒311-0193 那珂郡那珂町向山801-1 ITER 那珂センター
電話:029-270-7770
ファックス:029-270-7460
嶋田道也(ラ・サール学生寮昭和50年卒業)




ブラザー・ジュール・ベランジェの略歴



1913年6月10日 サン・タレクサンドルにおいて17人兄弟の14番目の子供として出生
1927年8月22日 (14歳) サン・フォア小修練院に入る
1929年8月29日 (16歳) 初めてブラザーの修道服を着る
1930年8月15日 (17歳) 初めての誓願 修学院へ進学
1932年1月18日 (18歳) ヤマシッシュに赴任
1933年4月12日 (19歳) トロワ・リヴィエール・アカデミーに転勤
1934年1月15日 (20歳) ヤマシッシュに赴任
1936年8月15日 (23歳) ロレットヴィルに赴任
1938年7月14日 (25歳) ケベックで終生誓願をたてる
1939年7月   (26歳) 願い出て宣教の道を選ぶ
1940年9月末  (27歳) ヴァンクーヴァーで氷川丸に乗船
1940年10月19日 (27歳) 横浜港に到着、韓国、中国を経て満州の瀋陽に到着
修道院において日本語を学習、小神学校で教鞭を執る
1941年12月8日 真珠湾攻撃
1941年12月11日 (28歳) 香港上海銀行の建物に連行される
1941年12月21日 (28歳) ムクデン・クラブ(瀋陽のYMCA)に移動させられる
1942年1月末  (28歳) 四平(スーピン、Szepingkai)の神学校に強制収容させられる
1942年9月末  (29歳) 横浜ブンド・ホテル、帰国が不可能となり、競馬場に移動させられる
1943年5月末 (29歳) 山北村の強制収容所に移動させられる
1945年8月15日 (32歳) 日本の無条件降伏、数週間後、カナダに帰国
1945年11月 (32歳) ケベック市
1946年9月 (33歳) アルタバスカ
1947年夏 (34歳) サン・ジェローム
1947年9月 (34歳) トロント市
1948年1月 (34歳) オッタワ・アカデミーの年少修練院で教鞭を執る
1948年6月 (35歳) 再び日本に戻り、児童養護施設ラ・サール・ホームの設立に着手
1950年 (37歳) 児童養護施設ラ・サール・ホーム園長に着任
1953年9月 (40歳) ローマに向かい、第二の修練を9ヶ月間受ける
1955年4月 (41歳) 仙台に戻り、児童養護施設の園長と修道院長を兼務
1962年1月 (48歳) カナダでの休暇を利用してコンプトンにおいて百日間の黙想
1962年7月 (49歳) 日本に戻り、東京学生寮の舎監に就任
1962年8月 (49歳) 修道院長兼務
1966年11月 (53歳) 函館ラ・サール高校寮舎監に就任
1970年9月10日 (57歳) 鹿児島ラ・サール高校寮舎監に就任
1973年1月 (59歳) 東京学生寮舎監に就任
1978年春 (64歳) 東京の聖母病院に1ヵ月検査入院
1978年8月 (65歳) カナダに帰国、入院
1978年秋 (65歳) 左の腎臓と膀胱を切除
1979年3月 (65歳) 日本に戻り、東京学生寮舎監に復職
1979年12月 (66歳) 二度目の入院、化学療法を受ける
1979年12月17日 (66歳) 退院
1980年1月12日 (66歳) 日野において最後の聖体祭儀
1980年1月13日 (66歳) 日野において学生寮の寮生とOBとのお別れ会
1980年1月15日 (66歳) 羽田空港からカナダへ帰国
1980年3月20日 (66歳) 帰天



コラージュ




 


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