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ジュールさんのお墓参り

斎藤泰晴(LS学生寮OB18期)



Tronto

5月11日

トロントのホテルで目覚めたのは,まだ早朝の5時だった.時差ボケのためか,待ち に待った日がきたからか,はたまたゆうべ飲み過ぎたせいか.昨日で仕事は終わり ,15日までは休みをもらっている.個人的には,今回のカナダ訪問の最大の目的は, これからが本番である.

ここトロントはカナダで最大の都市である.五大湖の一つ,オンタリオ湖のほとりに 位置する都会だ.ブラザーベランジェもこの街に暮らしたことがあるはずだが,どこ に住んでいらしたのだろう.今日はここを離れ,鉄道でブラザー・ベランジェの眠る 街,モントリオールに向かう.モントリオールまでは,ここから約400キロくらいの 距離であるが,私は鉄道の旅を選んだ.ブラザー・ベランジェも目にしたであろう風 景を見てみたかったからである.

近代的な高層ビルが立ち並ぶダウンタウンにカナダ鉄道(VIA RAIL)のユニオン駅が ある.museumかと見まがうようなどっしりとした石造りの建物で,長い歴史を感じる .プラットフォームは薄暗く,さびれた感じは旅情をそそる.列車はゆっくりと駅舎 を出発し,間もなく緑の広がる郊外へ.車窓から見える家々はゆったりと並び,それ ぞれ美しい庭をもっている.緑の絨毯とタンポポの花そして新緑の樹木はメープルだ ろうか.所々に白い花をいっぱいにつけているものもある.列車の通る路線はメープ ル街道ともよばれる.秋には燃えるような紅葉を見せるに違いない.右側の車窓から みえるのはオンタリオ湖それともセントローレンス川だろうか.車窓からの風景は広 大で美しく輝いており,5時間の列車の旅は長くは感じなかった.

「ベランジェさんは,宣教のためカナダを離れるとき,どの様な気持ちでこの風景を 見ていたのですか?当時のことですから,もしかすると帰ってこれないかもしれない とも思ったでしょうか.家族との別れもつらかったことでしょう.日本や中国での過 酷な日々を想像していたのですか?異国の地で,使命のために命を燃やせますように と祈っていたのでしょうか?」「そして,親となったわが身を振り返ったとき,ベラ ンジェさんのご両親の心の痛みもよくわかるのです.大切な息子を送り出してくださ ったご両親に感謝します.大きな犠牲を払って,ベランジェさんが,日本に来てくだ さったので,私たちは,あなたに出会うことができました.ありがとうございます. 」

今では,簡単に半日で両国は行き来が出来るが,当時の困難な渡航に思いを馳せる. 車内放送がモントリオールへの到着を告げる頃,モンロワイアルの丘と聖ヨセフ教会 の聖堂がみえてきた.ベランジェさんはあの丘のふもとに眠っているはずだ.

モントリオール市は,セントローレンス川の中州に発展した街である.北部は丘陵に なっていて,南のセントローレンス川へ向かって街がひらけている.鉄道は,モント リオールの中心部へ南から大きく弧を描いて入っていき,セントラル駅に到着した. モントリオールの街は,どこからもモンロワイアルの丘が見える.大きな都市ではあ るが,一つ路地にはいると,こじんまりとしたカフェやレストランが並び,フランス の町並みに似ていると言われる.話されている言葉も街の案内表示も多くはフランス 語である.二百年程の昔,領土をめぐって,フランスとイギリスの間で戦いがおこな われ,当初英国が優勢であったが,激しい攻防の末,ケベック州はフランス系の人々 が住み,イギリス系の人は,西方と南方に移ったということである.

ノートルダムデネージュ墓地はモンロワイヤルの丘の西側に位置し,東側には別の墓 地が連続している.以前ここを訪れたことがある嶋田先輩に,案内なしにラサール会 の墓地を発見することは困難であるとお聞きしていたので,フィリップ先生を通じて ,当地のボアベール先生とシプリアン先生を紹介していただいてある.お二人ともモ ントリオールのラサール会修道院に住んでいらっしゃるが,日本での生活も長かった ので日本語が通じる.出発前のFAXのやりとりで,翌朝,私の泊まっているホテルま で車で迎えに来てくださるということになっている.

5月12日


with brothers

早朝に目覚めたため,まだ人気の少ない街を散歩する.モントリオールは大都会には 違いないが,教会の庭にはリスが住んでおり,人の気配を感じて木から降りてきたり する.

昨日,近くの公園にある花屋を見つけておいた.朝は8時に開くという.お墓にお供 えするというと,そこのおばさんは,旅行者がお墓に供える花を買うのを変に思った のか少し不思議な顔をしたが,親しいブラザーがノートルダムデネージュ墓地に埋葬 されているので,日本からお墓参りに来たのだと,たどたどしく説明すると,いたく 感激した風であった.もしかすると,私の兄が埋葬されていると思ったのかもしれな い.

朝8時過ぎにラサール修道院へ電話を入れると,すぐにボアベール先生につながった .ボアベール先生とシプリアン先生はすぐにホテルに迎えに来てくださり,とても歓 迎してくださった.お二人とは,東京でお会いしたことがあったかもしれないが,記 憶ははっきりしない.しかし,私は,とても懐かしい気持ちで一杯になった.モント リオールで日本語をしゃべってくれるカナダ人がいる.ボアベール先生の横顔はなん だかベランジェさんに似ている.

「まず,ベランジェ先生の所に行きましょう」ダウンタウンのホテルから北西の丘に 向かって車は坂を登って行く.10分くらいでノートルダムデネージュ墓地の入り口に 着いた.この墓地にはいくつかの入り口がある.私たちがくぐったのは,おそらく最 も西側に当たる入り口ではないかと思う.墓地はなだらかな丘陵にあり,新芽を吹き 出し始めた木々の緑が目にまぶしく,鳥のさえずりも聞こえてくる.通路は広々とし ており,墓の近くまで車で入ることが出来る.入り口から数百メートルのところにラ サール会ブラザーたちの墓碑があった.一人一人の墓が建っているわけではなく,大 きな石碑の裏側に亡くなったブラザーたちの名前が刻まれている.シプリアン先生は 墓碑の正面3メートルくらいの所をさして,ベランジェ先生はこの辺に埋葬されてい ると説明してくれた.

「ベランジェさん,とうとう来ましたよ.羽田でお別れして以来ですね.いやいや, それは違いました.あなたは,いつも私たちのそばにいてくださいましたね.私はい つかここに来たいと思っていました.」

語りかけることはたくさんあった.ベランジェさんの顔がいきいきと目に浮かんでく る.手の感触を思い出す.その場を去りがたく感じたが,ベランジェさんが埋葬され たという辺りから,茶色くて硬い小さな石ころを一つ拾ってその場を離れた. モンロワイヤルの丘の中腹に建つ,聖ヨハネ教会へ連れていっていただいた.多くの病 気の人に奇跡をおこして癒したという聖ブラザーアンドレのご遺体が祀れており,世 界中から多くの巡礼者が訪れるという.ご遺体は石櫃の中にはいって,聖堂の奥に安 置されている.外からの光は全く入らないが,数え切れないほどの蝋燭の火がともさ れており深紅の光がゆらめいている,蝋燭の香りがただよう神秘的な空間の中で言葉 をしばし失った.不用になった多くの杖が壁に掛けられており,多くの癒しがあった ことを物語っていた.

シプリアン先生は,少し前に心臓発作を起こして近くの病院に運ばれ,病院に着いた 直後心臓が一時止まったのだという.蘇生は成功し,翌日には大動脈冠動脈バイパス 術と弁置換術が行われ,今はゆっくりとリハビリテーションをしていらっしゃるのだ そうだ.

墓地と聖ヨハネ教会からそう遠くない所に,モントリオールのラサール会ブラザーズ ハウスはある.モンロワイヤルの丘の北側,遠くからもみえるモントリオール大学が 目印になる.大学正面の門からすぐ近くの住宅地にある4階建ての建物だ.ここに は20人のブラザー達が住んでいらっしゃる.シプリアン先生は無理は出来ないのでこ こに残り,私はボアベール先生の車でモントリオールの街を案内していただいた.昼 食はラサールハウスに戻りごちそうになった.井上ひさし氏の「握手」が載っている 教科書を持っていったので,内容を簡単に説明し,一つ疑問に思っていることを質問 した.「この中で書かれている,日本の収容所に入れられていたときに指をつぶされ たというのは本当のことですか?」ボアベール先生は知らないとお答えになった.

夕方近くまで,ボアベール先生は私につきあってくださった.ボアベール先生につい てはあまり多くお話を伺わなかったのが残念だったが,先生はケベック州の南,アメ リカに近い小さい町に生まれ,1956年に日本に渡られた後,主に鹿児島ラサールで仕 事をされたのだという.私の生まれる前年には日本にいらしていたのだと思うと,ボ アベール先生も生涯の多くを日本に捧げてくださった方なのだという思いを強くした. とても愉快だったのは,旅行会社につとめている姪のところに私を連れていって,い たずらを企てようと画策していたのであった.自分は隠れていて,私がボアベール先 生の姪子さんのところで日本語でまくしたてる.しばらくして,姪子さんが困り果て ている頃にボアベール先生が顔を出すというシナリオである.もし私に時間があった ら,連れていくのにとほんとに残念そうであった.どうして,ブラザー達はこうも明 るく天真爛漫なのか.しかし,私もそのいたずらにのってみたかった.

短い時間であったが,モントリオールのブラザー達は,私にとってまた忘れ得ぬ人に なった.

夕方の,列車に乗るために再びセントラル駅に向かう.途中で花屋のおばさんが笑顔 で手を振ってくれたので,「行って来ましたよ.ありがとう.」と私も手を振った. 列車でケベックシティーへと向かう.約2時間の旅である.のどかでどこまでも続く 畑と牧場,そして森とその中を流れる川.列車は警笛を頻繁に鳴らしながら進んでい くが,おそらく動物にたいしての合図なのであろう.途中,森に逃げる二頭のシカを みかけた.北へ向かうにしたがって,広葉樹(メープルだろうか?)に混じって,ク リスマスツリーの様な針葉樹が混じってくる.駅の周りにも小さな集落しかみられな い.ベランジェさんが生まれ育ったのもこのような農園だったのだろうか.

ケベックシティーに着いたのは,6時半をまわっていたが,緯度が高いため日が長く ,8時半頃までは明るい.ケベックシティーは人口20万弱のこじんまりとした古い街 で,セントローレンス川に面した高台にある.城壁で囲まれた旧市街とその周りの新 市街そしてローワータウンからなる.旧市街のホテルに宿を取ったが,町並みは,中 世のヨーロッパのように石造りの家が並んでいる.市全体が世界遺産に指定されてい るということである.この街には,ベランジェさんが学んだラバル神学大学がある.

5月13日

5月の半ばだというのに,吐く息が白くなるほど冷え込んでいる.川から吹き付ける 風も冷たい.昨日のモントリオールは暑いくらいだったのに,今日はこの寒さだ.カ ナダの気候は大きく変わるものである.

旧市街をまわるのは歩くのが一番である.朝一番にノートルダム大聖堂を訪れた.ス テンドグラスが美しい.100人以上の制服を着た若者達が整列して聖堂に入ってきた .ミサが始まるらしい.吹奏楽隊とオルガンの二重奏が始まる.教会音楽にしては勇 ましい.カナダ軍ためのミサだという.途中で退席し街中を歩く.途中,コリシェン ヌ修道会とその博物館を訪れた.宣教のためにカナダに渡り,原住民に対して宣教と 教育を行っていく過程が展示されていた.その熱意と苦労はよくわかった.

「原住民の生活のスタイルまでも変えていく宣教のスタイルは,彼の宣教とは違うな .彼は,ドンブリ飯を我々と一緒に食べ,ふんどしスタイル.着物を着こなし.私た ち以上に日本人たろうとしていましたね」

ラバル大学は今は,一部博物館になっている.旧市街はゆっくり歩いても2時間くら いで一回りすることが出来る.白っぽい重厚な石造りの校舎は,ベランジェさんが学 んだときも同じだったであろうか.受付をすませると聖堂に入る.今は,この聖堂で 彼は祈ったのだろうか.中廊下を通って博物館にいく途中ラバル大学の古い校舎と中 庭が見える.博物館は,カナダ開拓の歴史が分かるように展示してあった.

ケベックでの一日はあっという間に過ぎていった.明朝は,朝一番の国内便でトロン トまで行き,成田行きに乗り継ぐことになっている.早めにホテルへ戻った.ベッド で聖書を開く.ルカによる福音11章「あなたの体のともしびは目である.目が澄んで いれば,あなたの全身が明るいが,濁って入れば,体も暗い.だから,あなたの中に ある光が消えていないか調べなさい.あなたの全身が明るく,少しも暗いところがな ければ,ちょうどともしびがその輝きであなたを照らすときのように,全身は輝いて いる.」ベランジェさんの声を聴いたような気がした.彼の故郷で,いつの間にかぐ っすりと眠ってしまっていた.

18期 斎藤泰晴


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