Valid HTML 4.01 Transitional


「鹿児島ラ・サール学園初代校長先生 マルセル・プティさん」

日加タイムス(2006年2月24日)から


こちらにモントリオール・ブレテン紙の記事があります
こちらにマルセル・プティ先生の最近の写真があります

Nikka Times article
プティ先生を紹介した日加タイムス 2006年2月24日号

同紙は、カナダ全土を網羅する唯一の日系新聞で、毎週1回の発行。約 7,000 世帯が購読している。
日加タイムスのウェブサイトはこちら

(上の画像をクリックするとpdf形式のカラーコピー(1.3MB)が読めます。
ファイルサイズが大きいので表示されるまで時間がかかる場合があります。
表示倍率を300%にして頂くと文字がはっきり読めます。
また、掲載された写真の原画がこのページの下の方にあります。)


  プティ先生を取材した同紙/小柳記者のお話:

トロントに住んでいる読者Aさん(鹿児島出身)。昔、プティ先生と親しくしていたが、しばらく交流が途絶えていて、今回の記事を読んでびっくりされたそう です。日加タイムスに連絡してこられ、編集長がプティ先生の連絡先を教えたところ、なんと30年ぶりにしてまたプティ先生とお話できたと、とても喜んでお られたそうです。

こういうエピソードは、ほんとうに嬉しい話ですね。

人(ひと)  戦後日本の英才教育に献身

鹿児島ラ・サール学園初代校長 マルセル・プティさん

<モントリオール・小柳美千世>



進学校として日本全国にその名が知られている鹿児島県のラ・サール学園。

敗戦後の復興がようやく始まった1950年(昭和25年)、モントリオールに本部を持つカトリックのラ・サール修道会(教育事業を天職としている修道会)【註1】によって、鹿児島湾(錦江湾)を挟んで正面に桜島を見渡せる鹿児島市小松原の海岸沿いに設立された。

学園には中学校と高等学校の男子校があり、学生寮も備えている。東京大学などへの高い進学率を誇り、卒業生には政・官・財界はもとよりあらゆる分野で活躍している著名人が名を連ねている。

ラ・サール修道会から日本に派遣されて、鹿児島に学園を創設し初代校長先生として就任したのが、マルセル・プティさんである。就任当時32歳、国内で一番若い校長先生だった。

鹿児島で校長を4年間務めたあと、東京都日野市にあるラ・サール修道会に移り【註2】、理事長【註3】として鹿児島と函館の両校、および仙台の孤児院【註4】を管轄する任務についた。1988年には日本政府の叙勲で勲四等旭日小綬章を受賞し、5年前にカナダへ帰国した。

現在は、モントリオール郊外にあるラ・サール会のレジデンス(養老院)で静かな余生を送っている。

敗戦後の日本に学校を


プティさんは、1918年、8人兄弟の末っ子としてモントリオールで生まれた。

プティさんが通ったのがラ・サール会の小・中学校だった。修道士の献身的な姿に感銘を受け、プティさん自身も修道士となって教育家を目指すことになる。

その後、アメリカに渡ってラ・サール会の大学で修士課程を修了し、アフリカで教育者としての道を極めたいと思っていたプティさんのところに、ある日、日本に行ってほしいとの依頼が舞い込んできた。

戦後の日本復興を行っていたアメリカ(マッカーサー元帥)が、ラ・サール会へ修道士の派遣を要請したのである。

建造物の復興のために必要なクギやガラスのほか、「自分の食料は自分で持っていくように」という指示だったため缶詰を買い込み、サン・フランシスコから船に乗って日本へ。

着いてすぐに宮城県仙台市にある孤児院ラ・サールホーム(開所時の名称は「光ヶ丘天使園」)へ向かう【註4】。そこで奉仕活動を行っていたところ、鹿児島にラ・サール会の学校を創設することになり、プティさんが抜てきされた。

プティさんは、その依頼に大変びっくりしたのを今でもよく覚えているそうだ。

第一に年齢の若さ、そして日本語も満足に話すことが出来ない上、なによりも日本の教育について経験がまったくない。

そんなプティさんを決意させたのが、敗戦に打ちひしがれた日本人の姿だった。
「なんとかこの国民の力になりたい」
そう思ったプティさんは、仙台駅で鹿児島までの切符を買った。その際、駅員の人がとっても驚いていた顔を懐かしく思い出す。

さらに面白いエピソードとして、45時間かけて鹿児島駅に降り立ったとき、プティさんを呼び止めるふたりの男性の声があった。

何事かと思うと、そのふたりは鹿児島にある新聞社の記者だった。プティさんが仙台駅で切符を買った際に、隣に並んでいたのがその新聞社の仙台支局員だったらしく、その記者から連絡を受けたそうだ。

プティさんを迎えた記者が「鹿児島の女性は綺麗ですか?」と聞いたのが面白かったと、プティさんは当時を振り返りながらほほ笑む。

「日本人であることに誇りを」


1950年5月10日付の西日本新聞の紙面に紹介されたラ・サール高校の記事は、プティさんの言葉として「私の教育のプログラムは道徳的、社会的かつ知的に調和のとれた完全な人格を養成することです」と紹介している。

プティさんは、学校創設にあたって粒ぞろいの先生と生徒を集めるために奔走した。

遠方より入学する生徒のために、旧島津別邸を借り受けて寄宿舎と、学問をする環境を整えた。図書館にはカナダのラ・サール会から送られてきた洋書3000冊と、新しく購入された日本書2500冊が収められた。校舎なども、カナダの信徒から受けた寄付で整備された。

1950年4月の開校式には、アメリカ占領下にもかかわらず、日の丸の旗を掲げて国歌「君が代」を歌うことを奨励したのもプティさんである。敗戦で意気消沈していた人々に、日本人であることを誇りに思ってもらいたい一心だったそうだ。

そういった熱意にこたえるべく、生徒たちは一生懸命勉強をした。

プティさん自身も、どんなに忙しいときでも校長室に習いにくるものがあれば、たとえひとりでも個別に教えていた。

貧しくて不安な世の中だったからこそ皆と常に明るく接し、教職員・保護者・生徒が心ひとつになることを常に心掛けていたそうだ。

当時の在校生のほとんどが、毎朝行われていたプティさんの英語での5分間スピーチを思い出すそうだ。

また、プティ先生に教わったフランス語の唱歌「アルエット」「フレール・ジャック」などを懐かしく口ずさむことがあるという。これは、フランス系カナダ人なら大人から子供まで誰でもが知っている歌である。

ファミリー・スピリット


プティさんが目指したものは、「ファミリー・スピリットに根ざした学校を作る」ことだった。

開校当時、プティさんは各クラスにクリスマス時に箱を用意した。その箱の中に、自分たちよりも貧しい人たちのために分け与えられるものを入れるためだった。

それが現在は、毎年11月に開催される「クリスマス・バスケット・バザー」となって、収益金が世界各国に寄付されている。

また、卒業生からの寄付や在校生へのさまざまな援助が絶えないといい、卒業生の間では、年代に関係なく機会があればいつでも集まって親交を深めているそうだ。

プティさんは、カナダに帰国する際に卒業生の有志から送られた餞別でコンピューターを購入した。それは、日本から遠く離れた地でもEメールによって卒業生との交流を続けるためであった。

昨年10月には、ラ・サール校2期生とその家族が、時の中山成彬文部科学大臣、伊藤祐一郎鹿児島県知事,森博幸鹿児島市長(いずれもラ・サール高校OB) のメッセージを携えてプティさんを訪問するツアーを実施、モントリオールを訪れた。今年の6月には4期生がやってくるそうだ。

プティさんは、こうして自身が描いたファミリー・スピリットの夢が達成されたことに心から感謝し、ラ・サール学園に携わる人々を誇りに思っている。

「毎日明るくニコニコ」


ときには、近くの日本食レストランで好物のマグロ寿司を食べ、毎週土曜日夜8時には同じレジデンスに入居している仲間と乾杯をするのを、何よりもの楽しみにしているプティさん。

最後に健康の秘訣を聞いたところ、「毎日明るくにこにこし、昨日の問題は忘れて新しい今日を大切に過ごすことだ」という応えが返ってきた。


補足説明

【註1】ラ・サール修道会の本部はバチカンにあり,全世界に活動を展開しています.
    そのカナダ管区の本部がモントリオールにあります.
               (ここをクリックすると本文に戻ります)

【註2】プティ先生が鹿児島の修道院から東京に着任された当時は,渋谷区上原に
    あり,1970年頃,日野市に移転しました.
    その日野の修道院も,2004年4月に閉鎖となり,仙台に集約されています.
               (ここをクリックすると本文に戻ります)

【註3】正式にいうと「ラ・サール修道会 日本管区長」です.
               (ここをクリックすると本文に戻ります)

【註4】現在の正式名称は,
      児童養護施設 ラ・サール・ホーム
    となっています.
               (ここをクリックすると本文に戻ります)


新聞に掲載された写真の原画



Petit Sensei now

最近のプティ先生



young Petit Sensei

若い時のプティ先生



Petit Sensei 03

庭での集合写真



Petit Sensei 03

西日本新聞(記事の内容は原文版常用漢字版の双方で読むことが出来ます)


back 目次へ戻る


ウェブ化 鶴田陽和(鹿19期)
pdf 制作 野上尊啓(函22期)
補足説明 沖崎章夫(鹿24期)
協  力 小柳美千世(日加タイムス)
 鶴丸泰久(鹿2期)
監  修 隈部敏郎(鹿19期)
特別協賛 日加タイムス


counter
Since 2006 March 11th