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ラ・サール高校2期生、マルセル・プティ初代校長とカナダで再会

モントリオールの邦字新聞モントリオール・ブレテン紙から
(2006年1月21日発行61巻1号)。
鶴 丸 泰 久 (ラ・サール高校2期生)

こちらに日加タイムスの記事(2006年2月24日)があります
記事のコピー(pdf形式,1.3MB)もあります。表示倍率を300%にして頂くと文字がはっきり読めます
こちらにマルセル・プティ先生の最近の写真があります

鹿児島市のラ・サール高校2期生(1950年4月開校時に2年生28名、1年生 160名が入学したうちの1年生で、1953年卒業)13名と家族など19名、それに現地参加1名、計20名は、2005年9月27日から10月5日、カナダのモントリオール市郊外在住の初代校長、マルセル・プティ師を訪ねるツアーを実施した。

当初の計画では2003年に卒業50周年記念プレイベントとするはずであったが、旅行ルートのトロントで SARSによる死者が出る騒ぎが起こったため止む無く延期せざるを得なくなった。 それに、昨年(2004年)は古稀を記念する全体大会を東京で開催したので、カナダ旅行は見送られた。しかしながら、旅行再開を望む声が多く、2年遅れの今年遂に実現に至ったのだった。

現地モントリオールでは、第二次世界大戦での敗戦間もない昭和25年にカソリック系の私立高校新設に奔走した、マルセル・プティ先生が生徒たちとの久しぶりの再会に備えて、ラ・サール・レジデンス(ラ・サール会を定年退職された方々のホーム)の二階広間に特別に資料室を準備して待っていた。そこには学校創設時代の学校関係の資料とか、2期生とプティ先生との懐かしい沢山の写真などがきれいに展示されていた。2期生たちはプティ先生としばし昔を偲び語り合い楽しんだ。

ラ・サール高校は、近代教育の父といわれるフランス人、聖ジャン・バプテイスト・ド・ラ・サール師によって創設されたカトリック系教育団体、ラ・サール教職会−キリスト教学校修士会の日本最初の学校として、1953年4月、男子だけの高校として開校した。

プティ先生はフランス系カナダ人で当時32歳という日本でも最も若い校長であったが、学校経営に情熱を傾け現在のラ・サール高校の輝かしい歴史の基礎を築いた偉大な教育家である。その功績により1988年に日本国から勲四等旭日小綬章を受賞している。日本のラ・サール会に53年間勤務して4年前にカナダに帰国した。

特別参加の初代クロアチア大使を勤めた故大羽圭介君のウーテ夫人も滞在先のベルリンから駆けつけた。夫人はマルセル・プティ先生が大羽圭介君のことを良く覚えていたことに喜びの涙を流していた。

プティ先生の謝恩会は大いに盛り上がった。席上、「学校創設に当たり一番心がけられたことは何でしたか」という平石圭太君の質問にプティ先生は「良い先生を集めることだった」と答えた。それは 井畔、山口、猶野、芳、大塚、岩井、野田など当時大学教授クラスの専門性の高い知識と識見を兼ね備えた素晴らしい先生方を集めたことからも納得できる。

プティ先生は、50数年前の教え子たちと久しぶりに会えた喜びと共に「政・官・財界はもとより日本、いや世界のあらゆる分野で活躍しているラ・サールボーイは、大先輩である諸君のよき伝統の成果だ。私の夢は今、実現した。ありがとう! 私は諸君を誇りに思う」と感激の面持ちで述べた。

委託された、ラ・サール高校OBである中山成彬 前文部科学大臣、伊藤祐一郎 鹿児島県知事、森博幸 鹿児島市長の三人が寄せたプティ先生への仏語、英語での感謝のメッセージも読み上げられた。旅行を延期している2年の間に、中山成彬君(11期生)が文部科学大臣に就任、故郷鹿児島では伊藤祐一郎君(15期生)が鹿児島県知事に、森博幸君(17期生)が鹿児島市長にそれぞれ就任したためである。

55年前、おりしも占領政策の一環としての新しい学制が順次施行される中、谷山の地に私立の男子校を新設するに当たっては、時の文部大臣、鹿児島県知事、鹿児島市長たちに格段の理解と協力を得たことをマルセル・プティ先生は良く記憶しておられた。回想録によれば、このような開設申請書は承認には通常数ヶ月を要するのに、わずか数日で許可書をもらったとある。

それだけに自ら苦労して新設した高校の卒業生が、要職に就いたことを殊の外喜ぶであろう、と旅行の計画を聞いた、この3名は、2期生に初代校長宛のメッセージを託した。メッセージを聞いたプティ先生は「夢ではないですか。本当ですか」と満面の笑顔で訊ねた。メッセージを読んだ緒方清君は両ほほを抓りながら「本当ですよ。先生」と笑顔で答えた。

プティ先生は翌日のロレンシャン高原までの1日バス旅行にも同行、バスの車中ではみんなで50数年前の高校時代にプティ先生から教えていただいた『アルウェット』など懐かしい歌を大きな声で合唱した。先生もまた「良かったね。よく覚えていましたね」と本当に楽しそうであった。

また、なかでも印象的だったのは、バスでモントリオールへの帰途、Saint-Sauveur-des-Montsという町に寄ったが、ここはプティ先生が4歳から6歳までの幼年期を過ごされた所で、80年後の今も先生の家はブテイークとして、先生が通われた学校は不動産屋として、その面影を残していた。

参加した2期生の坂口孝一君は、帰国後「私にとってはもう一人の親のような存在。いい親孝行ができた」としみじみと話していた。

昨年、2期生が発議して「ラ・サール奨学金制度」を創設、2期生は合わせて100万円の基金を寄付した。また卒業後20年・30年・40年・50年と区切り年度が来る卒業生たちは記念同窓会の開催に合わせて、ラ・サール学園、ラ・サール修道会などに対し多額の浄財を寄付している。

これこそ、まさにマルセル・プティ先生がいつも説いておられたファミリー・スピリットが花開いたことの証であるといえるのではあるまいか。

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