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伝記に寄せて(ブラザー・マーク・マウ)



ブラザー・マーク・マウは、日本でフィリップと、ともに宣教にたずさわっていた仲間です。この伝記のために、わざわざ数ページにわたる文章を寄せてくださいました。 本文に掲載しきれなかった内容を以下にご紹介します。

ブラザー・モーリス・ジャック・ラポァント



ブラザー・フィリップと最初に出会ったのは、私がモン・ド・ラ・サールに入会した1951年6月のことです。私がサン・ジェロームの修練院に入るころ、ブラザー・フィリップは修練院を終えて誓願を立てるところでしたので、2ヶ月ほど共同生活を送りました。 彼は、とても目立った存在でした。話が上手でした。祈りの時間を主宰するブラザー・フィリップは落ち着いていて、その姿には信心深さがあふれていました。

ブラザー・フィリップとはその後、1968年に鹿児島のラ・サール学園で再会しました。 彼は英語を教えていましたが、カナダとローマで第二修練を受けるため鹿児島を発つところでした。そのため、私が10期の生徒の授業を引き継ぐことになりました。ブラザー・フィリップの評判は、教師・生徒を問わず、抜群でした。そのころ結ばれた生徒との深い親交は、歳月を経るにしたがってさらに深くなり、最期まで続きました。

1966年、ブラザー・マルセル・プティは、長野県茅野市の御狩野(みかりの)に土地を手当てしました。研修所(ロッジ)を建て、勉強中の若いブラザーたちに憩いの場として提供したい、というのが土地購入の動機でした。
そのうち、ブラザー・フィリップが御狩野の担当になりました。彼は、ブラザーたちや友人、卒業生を御狩野に招き、また、近所の人たちとも親しくなりました。ほどなく、特に夏の間、たくさんの人たちが訪れるようになったため、増築する必要が生じました。 青年会や信者のグループを連れて訪れる神父もいました。
しかし、招待に応じないブラザーもいました。遠すぎる、というのが原因の一つでした。

二つや三つ先の教区でも、遠すぎると感じる人もいました。その他にも、時間がない、他の仕事が忙しい、あまり興味がない、という理由で足が遠のいていたようです。
私は御狩野に何度も行ってお手伝いをしました。御狩野を拠点にして、美術館、ハイキングや温泉に行くなど、さまざまな活動ができました。

同僚のブラザーと、宣教に関する色々な局面について話したり、当時、自分なりの 宣教 のスタイルを作り上げつつあったブラザー・フィリップについて話すことは、時々大変でした。ブラザー・フィリップは、しばしば自分が誤解されていると感じていたようです。

面と向かって意見が衝突することもありました。基本的な考え方や心の波長に大きな違いがあったのでしょう。

御狩野ロッジの売却が決定されたとき、ブラザー・フィリップはうちひしがれました。
それは過酷な試練でした。そのほかにも、いくつもの試練を受け、将来の計画が立たなくなりました。

日野修道院での生活が25年になったころ、上層部はブラザー・フィリップに、函館ラ・サール学園で教鞭をとるよう依頼しました。教育の現場から長年遠ざかっていたので荷が重かったようですが、それでも勇気をふり絞ってこの異動を受諾し、2年間、函館で教壇に立ちました。
その後、日本での最後の任地となる仙台の修道院長に就任しました。
日本管区ラ・サール会修道院の仙台移動にともなう日野修道院や御狩野ロッジの売却。 仙台修道院の建て直しによる旧建物の取り壊し。これらは、ブラザー・フィリップにとって悲しいできごとでした。
もともと、いつかはカナダに帰国する気持ちはありましたが、このような環境の変化によって、帰国が早まったのは間違いありません。
ブラザー・フィリップは、いま帰国すれば、まだ元気だから人の役に立つことができ、家族と一緒の時間を過ごすことができる、と考えたのでした。

以 上
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