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豊かな人間性、強い信仰と温かい人間関係を大切にした人の想い出

ブラザー・フィリップ・ジャン・マルク・ラポヮントの生涯の回想
(兄ジャックこと、ブラザー・モーリスの眼から)


Jean Marc

Bro. Philippe Jean-Marc Lapointe, 20 Oct. 1933 - 21 Dec. 2005



 ブラザー・フィリップは、家族からはジャン・マルクと呼ばれていました。
 1933年10月20日早朝、オッタワのロウワー・タウンの小さい賃貸アパートで生まれました。ジャン・マルクが生まれた朝、姉と私がジャン・マルクを一緒に見たのが最初か、あるいは兄のほうが先だったか、いまだに家族の間でたわいのないことを言い合っては楽しんでいます。
 ジャン・マルクは生まれた時から可愛がられ、家族の愛情を一身に受けていました。ジャン・マルクが人への気配りと優しさを育んでいったのは自然の成りゆきでした。
 いまだに「大恐慌」と呼ばれている30年代の経済危機で父が失職し、家計が苦しくなりました。その頃の私たちのクリスマスプレゼントといえば、みな親類からのお下がりでした。
 私はジャン・マルクに新品のプレゼントを初めて贈ったときのことを今でも、とても鮮明に覚えています。母は裕福な家の床掃除などの家事をして家計を助け、姉はアルバイトをしていました。家族の貯金を集めてジャン・マルクに新品の橇(そり)を買ってあげたのです。ジャン・マルクがどんなに喜んだことか。
 彼のなかには幼少のときから感謝の心が根づいていました。

 私は、ラ・サール会の修道士になるという志をたてて全寮制の学校に入学しました。その後、兄も同じ学校に入りました。その3年か4年の後、ジャン・マルクも同じ道を選んだことは母にはショックでしたが、母は私たちの決心を尊重する、と言ってくれました。その一方で、私のもとに帰ってきたければ、いつでも帰って来ていいのよ、とも言ってくれました。
 後に、兄であるロジェは退会して結婚しましたが、ジャン・マルクはブラザー・フィリップとなり、私とともにラ・サール会修道士としての生涯を過ごしました。

 フィリップが教師として最初に活躍した舞台はオッタワ地区でした。
 若く活動的なときは、あまりに活動に熱中しているため、常に自分達の行動パターンを分析するとは限りません。しかし、今になって教師として本格的に活動し始めたころのことを思い起こしてみますと、フィリップの教師活動で特筆すべきなのは、知識の伝授ではなく、学生との間で育んだ人間関係だったことがはっきりと分かります。
 そのころからもう50年の歳月が経ちましたが、当時の学生のなかには、長年にもわたってフィリップと連絡を取り合っている人たちがいます。その学生の親達のなかには、まだご存命で、フィリップと心からの交流を持ち続けている人もいます。このように一人ひとりへの気配りを怠らないこと、表面的なつき合いに満足しないで、もっと深い交流を希求することがフィリップの人生の特徴でした。

 フィリップは伝道に派遣されることを志願していましたが、そのことを家族は知りませんでした。1958年に日本への派遣がフィリップに依頼されたことは、母にはとても辛いことでしたが、母は再び彼の決心を尊重しました。
これらの出来事をお話しするのは、これらのエピソードからフィリップの人格と価値観の形成の背景が良く分かるからです。彼の勇気については後でお話しますが、彼の勇気は母が示した勇気を模範として育まれたのです。私たちの母は、体は小柄ながら勇気があり信心深い人でした。

 日本はフィリップにとって祝福された土地でした。
 フィリップは赴任してすぐに日本文化が好きになり、日本人と気の置けないつき合いができるようになりました。日本における最初の数年間は鹿児島で教職活動に打ち込みました。ここでも、彼が自分の真骨頂を発揮したのは授業ではなく師弟関係においてでした。この師弟関係は時が経つにつれて次第に深くなり、豊かに結実していったのです。

 1970年に私が日本を訪れたとき、京都駅で思いがけない出会いがありました。フィリップは教え子と両親に偶然再会したのです。フィリップと教え子と両親が再会を非常に喜んでいる様子を今でも生き生きと思い出します。
 そのとき、みなさんからお寄せいただいたお悔やみのメッセージにも述べられていましたが、フィリップが彼らの生涯にどれほど深い足跡を残したか、私にはよく分かりました。

 後に教職を離れて日本の管区長になり、管理上の責務を負うようになってからも、彼は友情の絆を強めていきました。その絆はとても強固なものになり、 互いに成長する好機を与えました。
 フィリップと私は、このテーマについて何度も意見を交わしました。何度も手紙を交わしました。そこで私は悟りました。 人によっては、ただの社交上のつき合いにしか見えないようなことが、精神的にまた人間的に成長をしたり、他人の世話をすることの価値を育んだり、お互いの理解を深めたり、心の奥底に触れる問いかけをする良い機会となることがあることを。
 彼は、このような接触や御狩野(長野県茅野市 御狩野 La Salle Lodge)で過ごした週末や休日を通じて自己実現を成し遂げたばかりでなく、継続的に人々と接し彼らを助けたのです。

 フィリップにとって日本を去ることは容易な決断ではありませんでした。それはまさに心引き裂かれる思いで、他人にはなかなか伺い知れるものではありませんでした。
 最近は仙台教区で布教の仕事に従事していましたが、彼は自分の使命は、ある面では、すでに達成されたと感じていました。彼が率先して始め育てたことは終わろうとしていました。
 またその一方で、彼が人々に教えようとしていたことは彼の友人達の手で着実に進められていました。友人達は彼の価値観を共有し、生涯を通じてその価値観を追求し発展させようとしていました。
 それから、彼はカナダにいる家族と友人のためにある程度時間を捧げたいと考えていました。彼はそれまである面で彼らのほうをあまり向いていなかったと気づいたのです。姉はそのころ寡婦となっており、それに兄ロジェの健康が心配でしたし、また、彼は愛する甥達や姪達が精神的に成長するための手助けをしたいと思っていました。
 また、カナダにはもっと深くつき合いたい友人達がいましたが、これまでの短い訪問だけでは、親しくはできるけれど表面的なつき合いしかできませんでした。

 この決心には勇気が要ったようです。彼は決心に至るまで全身全霊を捧げて祈りました。決断の後、彼は打ち明けてくれました:「決心するまでは大変だった。でも、いったん決心してからは気持ちが安らかになり、心が揺らぐことはなかった」と。

 フィリップは生まれた国よりも日本でずっと長い歳月を過ごしました。
彼は25歳の時にカナダを発ち、71歳の時に帰国しました。日本がフィリップの故郷でした。

 フィリップの日本の友人のみなさまに、フィリップに代わって、私からお礼を申し上げます。
大変お世話になりました。みなさまから寄せられた友情とご好意に感謝申し上げます。

 この回想・頌徳文は、フィリップの日本人の友人を読者に想定して書きましたが、フィリップは、カナダでも肉親、近い親戚、遠い親戚それから友人と深い人間関係を築きました。そのなかにはまだショックから立ち直れず、慰める言葉もないという人もいます。私たちは肩を寄せ合って泣きながらも、フィリップの想い出を永く伝えるためにできることを協力して実行しようと考えています。

 私たち家族は強い絆で結ばれており、家族への愛情は私たちの生活のなかでかけがえのないものです。
 私たちはこのたびの思いがけない突然の別れで深い悲しみに沈んでおります。

2005年12月26日 カナダ オッタワにて
ブラザー・モーリス・ラポヮント


追 記


 ブラザー・フィリップの亡骸には、防腐保蔵処理が施され、12月28日に家族と特に近郊に住む友人達が最後のお別れに訪れます。
亡骸はそれから火葬に付され、1月6日の夕刻、個人的なお通夜の祈りが瞑想の雰囲気のなかで行われます。その後ラ・サール会による(通夜の) 祈りが行われます。
 1月7日にカトリックの追悼ミサが、フィリップが若かった頃教えたことのある小教区の教会で催されます。遺骨の一部はオッタワのブラザーの墓地に埋葬されますが、残りの遺骨は二つの骨壺に納められて少し後に日本に届けられ、一つは東京のブラザーの墓地に、もう一つは仙台のブラザーの墓地に埋葬されます。つまり、彼の遺骨は彼が奉仕と愛情と祈りの生涯を捧げた土地に眠ることになります。

 この頌徳文を日本語に翻訳する準備を進めています。
 フィリップは日本語が大好きでした。日本語に翻訳することによってできるだけ多くの友人に読んでいただけるようにしたい、と願っています。


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