Valid HTML 4.01 Transitional


ベオグラードに眠る兄

(2006年10月25日発行「随筆 かごしま」第158号より)

(鹿児島4期 大羽 豪三)



私の兄 大羽奎介は外務省に奉職し、ほとんどの期間をベオグラードの大使館に勤務していましたが、旧ユーゴスラビアが分裂して出来た独立国のひとつ、クロアチアに大使館を設立する準備を任され、完成後 初代大使を拝命し(朝日新聞に「異色大使」として紹介されました【※註1】)、1998年から2001年まで勤めました。


ツジマン大統領(当時)とクロアチア駐在初代大使 大羽奎介。1998年5月、首都ザグレブの大統領官邸にて


1998年5月、クロアチア駐在初代大使に
首都ザグレブの大統領官邸で、ツジマン大統領(当時)と


2001年4月に退官式のため帰国した折に会ったところ「やっと宮仕えも終わった。これからザグレブに戻る。そして、またベオグラードに住んで本を書く」と張り切っていました。楽しそうに話す兄の胸中を察して、私もうれしくなり「それは楽しみだ。本屋に出たら一番に買って読むよ」と励ましました。

◇     ◇     ◇


兄は1935年に満洲で生まれ、父が亡くなった39年に引き揚げ、母の実家のある鹿児島市で暮らしました。大竜小学校から疎開して加治木の竜門小学校に転校し、竜門中学3年年生で鹿児島市に戻って長田中学へ転校し、高校は谷山に開校したばかりのラ・サールでした。大学は法政へ進み、大学院当時文部省の交換留学生として65年にベオグラード大学へ留学しました。4年間の留学期間の後も残り、日本大使館で新聞翻訳や通訳をしながら勉強を続けていたところ、仕事ぶりを認められて74年に本省採用になりました。

数年間のイスラエル大使館と本省勤務以外はずっとベオグラードでしたから専門家(地域調整官)として重用されたようですし、現地の皆さんとも深く交流した模様です。


左より鶴丸泰久さん、兄 大羽奎介、有馬弘純さん。2000年9月、クロアチアにて

2000年9月、親戚とクロアチアの兄(中央)を訪ねる
兄と同期(鹿2期)の鶴丸泰久さん(左)、有馬弘純さん(右)も参加


ザグレブに戻った兄は、何たる天のいたずらか、ベオグラードに移る前に体調を崩し、2001年8月に大腸ガンと診断され、頭にも転移していて手遅れということであきらめるしかなく、11月に息子の住むフィリピン(セブ島)に移りました。

そのことを翌年4月に兄からの電話で初めて知らされてびっくりし、慌てて妹と5月に見舞いに行った時はまだ元気で、普通に話もでき一緒に海水浴もしましたが、その後急速に悪くなり、8月に67歳で亡くなりました。


67年の生涯を閉じる1ヶ月前、2002年7月、フィリピンにて

2002年7月、フィリピンで(1ヶ月後、67年の生涯を閉じる)


9月に息子が「オヤジが一番長く住んでいた場所だから」と頑張って遺骨をベオグラードに運び、中央墓地に埋葬しましたが、その模様が現地の新聞、テレビで「ベオグラードを故郷よりも愛した日本人ここに眠る」という墓碑銘を引用して大きく報道されました。

日本でもインターネット以外では「ジャパンタイムズ」に出ましたし、10月に「ユーゴの『希望』は永遠に」と題した追悼記事が毎日新聞に掲載され【※註2】、この上なくうれしいことでした。兄は 向こうで若い頃からジェリコ(希望を意味するセルビア語)と呼ばれていたそうです。

都合がつかず 埋葬式に参列できなかった私と妹は、ベルリンに住む兄嫁(ドイツ人)と一緒に、2003年6月に ベオグラードを訪ね、墓参りをし、大使館も訪問しました。

その折 兄嫁が「セルビア・日本友好協会」の創立役員であるリリアナ夫人(元京都大学留学生)を紹介してくれたので、親しく歓談しました。彼女から 兄が常に現地サイドに立って考え、いろいろ尽力してくれたことを皆が心 から感謝していると聞かされて、とてもうれしい気持ちになりました。

その後も彼女とは手紙と電話のやりとりを続けていますが、2004年8月に「ベオグラード市ラコヴィチ区の或る通りを『大羽奎介通り』と命名することになったので、セレモニーに来てほしい」と連絡があり、11月に兄嫁と出席しました。区長、区会議員、友好協会と大使館の関係者、報道陣など 100名余りで盛会となり、兄嫁と私のお礼のスピーチも拍手で迎えてもらったので感激しました。滞在中に多くの人から兄のことを懐かしく語ってもらい、皆さんにこれほど慕っていただいて兄もどんなにか喜んでいることだろうと思いました。実は出発前と帰国後に、南日本新聞社東京支社へ報告に行ったところ、10月30日と11月20日に取り上げてもらいました。
その後2005年7月にまた連絡があり、兄の埋葬式の9月27日に兄を偲んで4チーム参加のミニサッカー大会を開催するとのうれしい知らせでした。10月に大会当日の写真と 試合で着用した KEISUKE OBA とプリントした色違いTシャツが4色各1枚送られてきて、またまた感激しました。この件もまた10月7日付の「消しゴム」欄に取り上げてもらったのでした。

それから、まだ続きがあって、今年5月にラコヴィチ区議会のジューリチ議員(大羽奎介通りの提唱者)から手紙と写真が届き、区役所近くの一画に「友達の場所」と名付けた休憩所を作り「偉大なる友人大羽奎介さんを偲んで」という銘板をつけることになったという知らせでしたから、改めて皆さんの厚意が身に沁みました。兄もきっと身に余る光栄と思っていることでしょう。

オープニングセレモニーの時期は追って連絡するということですが、その折に行けるかどうかは別にして、いずれにしろ数年のうちに、もう一度ベオグラードに行くつもりです。向こうの皆さんがこんなによくして下さるのですから、少しでも早くもう一度お礼を申し上げ、そして墓参りもしたい気持ちです。

リリアナさんからの手紙によれば、ベオグラード大学法学部で兄の伝記を出版する計画が進行中ということで新たな感激をおぼえています。終わりに手紙の一節を引用します。

「大羽さんは、日本とユーゴをより強く結びつけるために一生を捧げました。大羽さんは、ここで多くの友人を持ち、彼らは大羽さんを尊敬し崇拝しました。だから大羽さんのお墓には冬でも新しい花が供えられているのです。大羽さんが生前、私たちにしてくれたこと、そして、永遠に私たちと一緒にいたいという彼の最後の願いは尊敬され続け、決して忘れられることはありません」

予定が狂って本を書けなかった兄の無念さがいかばかり大きいものだったかを想像すると本当につらくなります。せめてあと3年、いや2年でも時間があれば、いい本が一冊は書けたのにと思うと残念でなりませんが、同時に私としては、前記のセレモニーのスピーチでも述べた通り、兄のことを誇りに思う気持ちが強まるばかりです。

(2006年8月9日記)


異 色 大 使

(クロアチア大使赴任時の新聞記事の紹介)




大羽奎介さんが任地に飛び立つ前の週の1998年5月16日、朝日新聞の夕刊に「異色大使」という記事が掲載されましたが、そのなかで大羽さんのことが次のように紹介されています。

「大羽氏の旧ユーゴ滞在は20年になる。1991年のユーゴ崩壊のときは、欧米諸国が反セルビア感情に流れ、ボスニア承認を急いだのに距離をおいて、ひと味違う政策を進言した。」

「分裂国家を早く承認すると、かえって紛争を深めるとみたからだ。日本政府はボスニア承認に最後まで慎重だった。政治解決を主張した明石康・国連事務総長旧ユーゴ問題特別代表を支えたのも彼だ。」


そして記事の最後は、

独自な視点が、国際的に評価されるときがくるかもしれない。活躍を期待したい。」

と結ばれており、当時の大羽さんの活躍が偲ばれます。

なお、上に掲載したクロアチアのツジマン大統領と一緒の写真は、赴任後すぐに、つまり、この記事の直後に撮影されたものです。

記事全文を読んでみたい方は、図書館などで
  1998年5月16日 朝日新聞 夕刊「窓・論説委員室から」
を探してみては如何でしょうか。

豪三さんの手記にあるように、奎介さんが亡くなられた後、ベオグラード市内に「大羽奎介通り」ができるなど、奎介さんは今でも、ベオグラードのみなさんに愛されているようです。

豪三さんからは、そんな「兄」をとても誇りに思うと仰っていますが、豪三さんだけではなく、われわれ、ラ・サール同窓生として、みんなが誇りに思うところではないでしょうか。

(文責 編集員一同)


ユーゴの「希望」は永遠に

2002年10月7日 毎日新聞 朝刊「東論西談 ある外交官の死」より

(毎日新聞社の許可を得て転載)




外務省随一の旧ユーゴスラビア通だった前駐クロアチア大使、大羽奎介さんが8月29日、フィリピン・セブ島で脳しゅよう悪化のため、67年の生涯を閉じた。同島に暮らす一人息子の直樹さんは「父の遺志」で遺骨をユーゴ連邦セルビア共和国の首都ベオグラードの墓地に納めた。埋葬式は9月28日に営まれ、日本人やユーゴの知人ら約150人が参列したという。

訃報を聞いたとき、1994〜99年のウィーン駐在時代に旧ユーゴ紛争の取材で故人に接した思い出がよみがえった。大羽さんは昨年3月、外務省を退職後、クロアチアの首都ザグレブで旧ユーゴ連邦崩壊に関する著書の執筆にかかったが、すでに病魔に侵され、果たせなかった。彼の旧ユーゴ地域への造詣の深さを知っているだけに、現代史の大切な証言者を失ったと悔やまれてならない。

大羽さんは65年、法政大からベオグラード大学に留学し、69年に在ユーゴ日本大使館職員として採用され、外交官の道を歩んだ。

当時のユーゴスラビアはチトー大統領の下、自主管理社会主義と非同盟外交を掲げ、ソ連型社会主義に失望した若者たちに夢を与える存在だった。また、スロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビア、モンテネグロ、マケドニアの6共和国で構成したユーゴ連邦は、民族間の政治的均衡を保ちながら東側陣営で最も自由で繁栄した国家だった。

しかし、80年のチトー死去、89年の東欧民主革命を経て、91年から各共和国が分離独立した旧ユーゴ連邦の地は、ボスニア内戦(92年〜95年)、コソボ紛争(97年〜99年)など陰惨な戦場と化した。セルビアと共に連邦を継承したモンテネグロも今、独自国家に向かっている。ユーゴスラビアはもはや実存しなくなった。

大羽さんがベオグラードで大使館参事官を務めた95年〜98年、意見を交わす機会がよくあった。印象に残っているのは、日本に多かった自主管理社会主義礼賛でなく、さめた目でユーゴ現代史とチトー時代を見つめていたことだ。同時に愛情も人一倍こもっていた。

「みんな仲良くできたんだ。どうしてこうなったのか。面目ないよね」。顔をしかめ、身内の失態を恥じるかのようにうつむき、赤ワインの杯を重ねた。

米国の強力な介入で収拾した旧ユーゴ紛争については、多くの欧米外交関係者の回想録が出版されている。その数冊を読むと客観的観察に留意した叙述は評価できるのだが、「ヨーロッパの一地域なのに随分突き放した見方をするのだな」と感じる。大羽さんの本なら現地の人々の思いや悔恨をもっとにじませる執筆になったかもしれない。

亡くなる数日前から、大羽さんは日本語でもなく英語でもなくセルビア語だけで語り続けたという。ベオグラードの墓碑銘には本人の名前と、留学生時代の下宿のおばさんがつけた愛称ジェリコが刻字されている。「希望」という意味だ。

[モスクワ・町田 幸彦]


ザグレブ中央墓地の墓には冬でも新しい花が供えられているという

ザグレブ中央墓地の墓石




「随筆かごしま」スタッフのみなさん

「随筆かごしま」スタッフのみなさんと
前 列: 上薗登志子さん(代表)
後列右: 大羽 豪三さん
後列中: 野添佳司子さん(上薗代表のお嬢さん)
後列左: 北方より子さん

【註】

北方より子さんは、鹿児島校24期 松村之彦さんの妹さん。
平成18年4月25日発行「随筆かごしま」(No.155)の編集後記で、
お兄さんについて次のように触れておられます。

この春渡米する兄が「しばらく会えないから」と帰郷した。
近況を報告し、さっそくおふくろの味に舌鼓をうっている。
13年まえにも6年任期で渡米した兄だが、今回は状況が多少違っている。
両親がそれなりに、そして確実に老いているのだ。
「今回は全然帰ってこられないかも…」と兄。
「そうね… 帰ってくるまでは元気でおらんならよ」と母。
兄と両親の胸中を思うと胸がいっぱいになった。

back 目次へ戻る


  資料提供  大羽 豪三(鹿4期)
  協  力  鶴丸 泰久(鹿2期)
        随筆かごしま社
         ※ 同社は、郷土・鹿児島に薫り高い文化の彩りと潤いをもたらした
          として平成17年度「南日本文化賞」を受賞している。
        毎日新聞社

  監  修  隈部 敏郎(鹿19期)
  ウェブ化  鶴田 陽和(鹿19期)
        沖崎 章夫(鹿24期)
        和田 豊郁(鹿26期)
        角  泰孝(鹿37期)


counter
Since 2007 Jan 29th